安部公房 (Abe Kōbō) · 箱男 (The Box Man)
箱男そろそろ冬ごもりの季節を控え、東京上野署は、ピストル連続殺人魔一〇八号の警戒もかねて、二十三日未明、台東区上野公園や、国鉄、京成上野駅地下道周辺にたむろしている浮浪者の一斉検挙を実施。 公園内の東京文化会館裏、地下道などにいた合計百八十人を、軽犯罪法(浮浪の罪、立ち入り禁止違反)道交法(路上禁止行為)違反現行犯で逮捕。 全員同署へ連行し、指紋や顔写真を取り、台東福祉事務所を通じて病気を訴える四人を病院へ、九人を養老院へそれぞれ送った。 また残りの者は「二度と浮浪しない」との誓約書を取った上で釈放した。 しかし一時間後には、ほとんどの浮浪者がまた元の場所にまいもどった模様である。 これは箱男についての記録である。 ぼくは今、この記録を箱のなかで書きはじめている。 頭からかぶると、すっぽり、ちょうど腰の辺まで届くダンボールの箱の中だ。 つまり、今のところ、箱男はこのぼく自身だということでもある。 箱男が、箱の中で、箱男の記録をつけているというわけだ。 箱男―どうも。 ―おや。 ―アベックの女の、のろいでも入っている。 ―……。 ―どうしたもんか。 妹に川向うを歩かせ、自分はこっち側を歩いてみた。 そうやって何度か往復してみたが、どうもいけない。 (そういうわけで、このあたりで一度休憩をはさんで、また次のページから再開、というわけである)(六人揃の手シリーズ三作目に続く)妹の言う通り、どうやらこの川向うの歩道、その中でもとりわけ、ある特定の場所から先が問題らしい。 渡り切ったあたり、ちょうどこのあたりで彼女の足取りがわずか乱れ、それからじりじりと歩みが遅くなって、ついに立ち止まってしまった。 彼女の表情をうかがうと、まるでなにか見えない壁にでも阻まれているかのように、眉を寄せ、顔をしかめている。 妹、それからこの場所を歩く人びとには、ごくふつうな風景が見えている。 いかにもうららかな春の午後、のどかな川沿いの散歩道、というわけだ。 の光景、はた迷惑なことに、あの忌まわしい光景が僕の目にだけ、うっすらとダブって見えているらしい。 うな光景ののっぺりとした、なにか得体の知れない気味の悪さ、しかし、かろうじて現実の風景に覆い隠されている。 はその、のっぺり感や(もしかしたら粘り気と呼んだ方が適切かもしれない)気味の悪さの正体だ。
どうやら僕には、その気味の悪い何かが、うっすらとではあるが、見えているらしい。 「ハコ男」と叫んで、その場にしゃがみこんでしまった。 ぼくは無我夢中で逃げだした。 ついにはじめてしまったのだ。 もうとりかえしがつかない。 走りながら、ぼくは思った。 いったいぼくは、なにをはじめてしまったというのだろう。 べつになにもはじまってはいないじゃないか。 はことうこというのは、箱の男という意味である。 段ボールの箱を頭からすっぽりかぶり、腰のあたりまでおおって、さすらい歩く、正体不明の都市的遊民のことである。 その目的は、のぞきである。 彼は箱の内側から、箱の外のすべてをのぞき、それをこまかく手帳に書きとめる。 彼にとっては、見られることはなく、見ることだけが存在する。 写真=安部公房題字=安部公房「状況によっては、そうかもしれない。 たとえば、なんの理由か知らないが、君がまったくの出鱈目を書いている場合。 あるいは、君がつい失神している間に、二十四時間以上が経過してしまった場合。 さもなければ、天変地異で、地球の自転が狂ってしまった場合。 しかし、そこまで言うつもりなら、この際まったく違った仮説を立てることだって出来るんだからね。 そうだろう、このノートの筆者を、君だと決めてかかる必要なんかどこにもないんだ。 君以外の誰かが筆者であっても、いっこうに差支えないわけだからな。 」男「言いがかりはよしてくれ。 現にぼくはこうして書いている。 潮の臭いが立ちこめている、暗い海岸だ。 すぐ頭の上の、脱衣場の濡れた板屋根に、小さな虫が霰のようにたかっている。 何かの拍子に箱の上に墜落してくると、雨だれのような音をたてるので、思ったより大きな虫であることが分ったりする。
今ぼくはタバコをくわえた……マッチをすった……焔がぼくの裸の膝を照し出す……タバコの火をその膝に近付けてみる……ちゃんと熱を感じた……どれもこれも、疑いようのない現実だ。 もし今ここで、ぼくが書きやめたら、次の一字一句だって、出て来はしないんだ。 」「……と、誰か別の人間が、何処か別の場所で書いているのかもしれない。 」箱「誰が? 」「たとえば、ぼくだっていい。 」「あんたが? 」「そう、ぼくが書いているのかもしれない。 ぼくのことを想像しながら書いている君を想像しながら、ぼくが書きつづけているのかもしれない。 」「なんのために? 」「箱男を告発するために、その実在を印象づけようとしているのかな。 」男「とんだ逆効果だよ。 あんたが筆者だとすると、箱男はただの空想の産物ってことになってしまうじゃないか。 」「それじゃ、箱男の無実を証明するために、実在していないことを印象づけようとし箱ているのかもしれない。 」「なるほど、そんな事じゃないかと思っていたよ、予感はしていたんだ。 しかし、あんたがいくら小細工を弄したところで、しょせん無駄な悪あがきさ。 こっちにはちゃんと物的証拠があるんだからな。 そう、こいつは交番に入る前に、あらかじめ警告しておくべきだったかもしれない。 ぼくが素手でないことを知っていれば、あんただってそう軽はずみな真似は出来ないだろうし……いや、べつに利用するつもりはない、「あら、大変。 あら、大変。 あら、あら、-さえすれば、箱を覗くくらい何時だって出来ることだ。 ゆっくり気持をととのえてかひとまずここは引揚げることにした。 結論を急ぐばかりが能ではあるまい。 決心したらどうだろう。 のだ。 そして彼女は、自由になる。
ぼくもこれを機会に、箱と手を切ってみることに理をすれば、あいつをこんなふうに箱に閉じ込めてしまうことだったのかもしれないな気がする。 彼女があんな取引を思いついた、そもそもの狙いも……あえて希望的観箱ぼくが替りに出てやることにしてもいい。 たしかに、それも一つの身の振りのよう当に出られなくなってしまうぞ。 いや、出たくないのなら、出なくて結構。 なんならいでしまわないんだ……酔っているのかな……そんなことを続けていると、いまに本男きまわるのを見るのはあまり気持のいいものではない。 悪趣味だ。 なぜさっさと脱奇妙に独立しているぼくの影。 鏡に映った自分の像が、こちらの意志を無視して、勝手に動しれないのだ。 部屋の対角線にそって、玩具のロボットのようなよちよち歩きで、往あの瞬間から、本物の権利は向うに移り、ぼくの方が贋物になったと考えるべきかもうと意気込んでみても、そう素直には応じてもらえそうにない。 五万円を受取った、りすぎている。 何をたくらんでいるのだろう。 この分では、いくら五万円を突き返そそれにしても、手のこんだ芝居を打ったものである。 ただの物好きにしては念が入むのだった。 ――戻ってこなかったらどうしよう。 色も十分着かないビニール革(それ以外には、どんな小犬も――たとえばベニスの犬引返してくる。 箱の正面が見えた。 これもぼくのと寸分違わない覗き窓に、仕掛けも退いする気はないらしく、箱をゆすって向きを変え、下着を濡らしたようなガニ股でのドンゴロスまで、ぼくのとそっくりである。 ドアが閉り、贋物男も立ち止った。 後うとする贋物男は、殻をもがれた昆虫に似ていた。 ゴム長をはいていないだけで、腰箱振向きもせずに把手を引き、くるりとドアの向うにまわり込んで消えた。 追いすがろちばん手近な無重力感は、墜落感だったっけ。 贋物男がベッドを這い降りた。 彼女は向う。 歩き出してみると、やはり変だ。 めまいのような身の軽さ。
そう言えば、い男く上体をしなわせ、見えない風船を蹴る仕草。 そのまま部屋を横切って、ドアにを左右に振って、口を閉じると、突き出した下唇が意外に肉感的だった。 それから軽疑わしげに箱を見せて、口だけで笑うと、意地っ張りの子供の顔になった。 小さく首た。 正面からスタンドの光が当ると、両眼の距離が開き、いくぶん爬虫類系に見える。 タバコをもみ消しながら、彼女は頭をゆすり、空いている方の小指で耳の穴を掻いすぎたせいかもしれない。 まったことに、なぜかひどく傷つけられていたようだ。 あまりしげしげと裏をかかれいった習慣の変化はまだ拭いきれなかった。 彼がもし、冷蔵庫の買い替えを思い立たりさえしなければ、いずれはそんな呪縛からも脱却できていたのだろうが……だが、冷凍室つきの新しい冷蔵庫も、当然のことだが、やはりダンボールの箱に入っていた。 それがまた、じつに頃合いの大きさのやつなのだ。 なかみを出して、空にしたとたん、いきなり箱男の記憶がよみがえってきた。 脈打つような音がした。 二週間の時間をさかのぼって、空箱の頭がはね返って来たような気がした。 Aはうろたえ、急いで箱を片付けてしまおうとした。 ところが実際に彼のしたことといえば、手を洗い、鼻をかみ、せっせとうがいを繰返すだけだったのだ。 はね返った頭が、頭蓋骨のなかを飛びまわり、脳の調子を狂わせてしまったのかもしれない。 しばらくあたりの様子をうかがってから、窓のカーテンを閉め、彼はふたたび箱の中に這い込んでみた。 箱の中は暗く、防水塗料の甘い匂いがした。 なぜか、ひどく懐かしい場所のような気がした。 いかにも辿り着けそうで、手の届かない記憶。 何時までもそのままでいたかった。 一分足らずで、我に返って、箱を出た。 多少のこだわりを感じながら、箱の始末はしばらく先にのばすことにした。 翌日、勤めから戻ると、台所のナイフで箱に覗き窓をつけて、こんどは箱男のうに頭からかぶってみる。 すぐに箱をはねのけ、笑いごとではなかった。
何が起きたのか、自分にもよくは飲み込めない。 しかし胸の動悸が、なにか危険を告げていた。 部屋の隅めがけて、思いきり乱暴に――ただし壊れない程度に――箱を蹴飛ばした。 三日目。 多少落着きを取戻し、覗き穴から外の様子を眺めてみた。 昨夜、何にあれほど驚かされたのか、もうよくは思い出せない。 たしかに変化は感じられる。 しかし、この程度の変化なら、むしろ好ましいくらいのものだ。 すべての光景から、棘が抜け落ち、すべすべと丸っこく見える。 すっかりなじんで、無害な影になり切っていたはずの、壁のしみ、……乱雑に積み上げた古雑誌……アンテナの先が曲った小型テレビ……その上の吸い殻があふれかけているコンビーフの空罐……そうしたすべてが、思いもかけず饒舌げで、自分に無意識の緊張を強いていたことにあらためて気付かせられたのだ。 箱に対していたずらな先入観は捨てるべきなのかもしれない。 翌日、Aは箱をかぶったままでテレビを見た。 さらに五日目からは部屋にいるかぎり、食事と、大小便と、睡眠以外のほとんどを、箱のままで過すようになった。 一抹の疚しさを除けば、べつに異常なことをしているという意識はない。 それどころか、この方がずっと自然で、気も楽だ。 これまでは「箱男」は箱をかぶって、都市をさまよいます。 そして、彼が見た風景を、ノートに書きとめていきます。 これは、そのノートです。 (空き店舗をとりあえず)ところで、横道にそれるようだが、ぼくはいま雨宿りである。 そこでしばらく、ぼく自身のことを書いてみようと思う。 ちょうどいま、運河をまたぐ国道二号線の橋の下で、雨宿りしながらこのノートを書きすすめているところだ。 あまり正確でない時計で、九時五十分。 六分まわったところ。 朝から降りつづいている雨で、重い夜空が低く海面に覆いかぶさっている。 橋のたもとにかぎり、漁業組合の倉庫と、材木置場。
人影もなければ、人通りもない。 橋の上を往き来するトラックのヘッド・ライトもここまでは届かない。 手許を照らしているのは、天井から吊した懐中電灯の光。 そのせいか、緑色だったはずのボールペンの字がほとんど黒に見える。 犬の息にも似た海辺の雨の匂い。 昔話で聞きかじったような方向のない無風なので、雨宿りの場所としては、そうふさわしくない。 潮気が強すぎるのだ。 いや、ふさわしくないのは、なにも雨宿りのためばかりではない。 何も彼もが――こんな時間に、こんな場所にいること自体が――雨宿りらしからぬ不自然なことなのだ。 たとえば、この懐中電灯ひとつ取ってみたって、ひどい浪費である。 ぼくらのような路上生活者は、ほとんどの日用品を拾い物で間に合わせてしまうし、また間に合ってくれるものだが、電池のような消耗品になるとそうもいかない。 ただノートを書くためだけに懐中電灯を使ったりする贅沢は許されていないのである。 最近は街燈の数も増えたし、光量も大きくなったし、光線の質もずっと向上した。 雨宿りしながら、新聞の活字が読めるくらいの場所なら、べつに不自由はしないのだ。 さて、その雨宿りらしからぬ場所に腰を下ろして、どういうわけか、もうかれこれ二時間以上にもなる。 まずはその釈明から始めるべきだろう。 もっとも、いくら懇切に努めてみたところで、君を納得させる自信はない。 いずれ君には信じられないだろう。 信じられなくても、事実は事実なのだから仕方がない。 このぼくの船が売れたのである。 それも大枚五万円で、買い手がついたのである。 いまぼくはその取引のために、こうして買い手を待ち受けているところなのだ。 君に信じられないように、ぼくにだ〈安全装置をとりあえず〉ところで、繰返すようだが、ぼくはいま箱男である。 そこでしばらく、ぼく自身のことを書いてみようと思う。 ちょうどいま、運河をまたぐ県道三号線の橋の下で、雨宿りしながらこのノートを書きすすめているところだ。
あまり正確でない時計で、九時十五分。 大分まわったところ。 朝から降りつづいている雨で、黒い夜空が低く地面にひきずっている。 目のとどくかぎり、漁業組合の倉庫と、材木置場。 人影もなければ、人通りもない。 橋の上を往き来するトラックのヘッド・ライトもここまでは届かない。 手許を照らしているのは、天井から吊るした懐中電灯の光。 そのせいか、緑色だったはずのボールペンの字がほとんど黒に見える。 犬の息にそっくりな海辺の雨の臭い。 噴霧器で撒きちらしたような方向のない細雨なので、雨宿りの場所としては、そうふさわしくない。 照明が高すぎるのだ。 いや、ふさわしくないのは、なにも雨宿りのためばかりではない。 何も彼もが――こんな時間に、こんな場所にいること自体が――箱男らしからぬ不自然なことなのだ。 たとえば、この懐中電灯ひとつ取ってみたって、ひどい浪費である。 ぼくらのような路上生活者は、ほとんどの日用品を拾い物で間に合わせてしまうし、また間に合ってくれるものだが、電池のような消耗品になるとそうもいかない。 ただノートを書くためだけに懐中電灯を使ったりする贅沢は許されていないのである。 最近は街燈の数も増えたし、光量も大きくなったし、光線の質もずっと向上した。 雨宿りしながら、新聞の活字が読めるくらいの場所になら、べつに不自由はしないのだ。 さて、その箱男らしからぬ場所に腰を下ろして、というわけか、もうかれこれ二時間以上にもなる。 まずはその釈明から始めるべきだろう。 もっとも、いくら釈明に努めてみたところで、君を説得しきる自信はない。 いずれ君には信じられないだろう。 信じられなくても、事実は事実なのだから仕方がない。 このぼくの箱が売れたのである。 それも大枚五万円で、買い手がついたのである。
いまだぼくはその取引のために、こうして買い手を待ち受けているところなのだ。 君に信じられないように、ぼくだって半信半疑もいいところである。 信じようがないじゃないか。 こんな使い古しの紙屑を、金を出してまで欲しがるやつが気が知れない。 閉じてもいないのに、なぜそんな暗い気分になったのか。 理由は簡単だ。 とくに疑う理由がなかった、ただそれだけのことである。 道端に光っている石を見付けたら、つい足をとめてみたくなるのと同じことだ。 ぼくの買い手も、夕陽を受けたビール瓶の破片くらいにはきらめいていた。 価値がないことは分っていても、ガラスの中で屈折して来た光には不思議な魅力があるものだ。 思い掛けなく、別な時間を覗き込んだような気分にさせられる。 とくに彼女の眼は、高台に立って見下ろした夜のレールなみにほっそりとしなやかだった。 ひらけた空のように視線を妨げるもののない、細くて青みがかった足取り。 信じる理由もなかったが、同様、疑う理由もなかったのだ。 ぼくは知らずに、彼女の眼に武装解除されてしまっていたようである。 もっとも今は後悔気味だ。 というより、いずれ手痛く後悔させられそうな予感に、すっかり気を滅入らせていると言った方がいいかもしれない。 みじめな気分。 どう考えてみても賢明らしくない。 初期の特権を自分からあっさり放棄してしまったようなものである。 希望があるにしても、高精度の分析器をもってしてもまず検出できそうにない、森々たる希望。 ぼくの眼になにか変化が起きはじめているのだろうか。 そうかもしれない。 考えてみると、この町に迷い込んでから、箱の表面がひどく傷つきやすぐ、鋭くなってしまったような気もするのだ。 たしかにこの町はぼくに悪意を持っている。
もっとも、この場所を選んだのは、半ば相手の指定だったが、それを暗示したのは、ぼく自身でもある。 ぼくにとっての危険は、相手にとっての危険でもあるはずだ。 橋のたもとには、水死した子供の供養に建てられたらしい、赤いネルのよだれ掛けをした石地蔵が立っている。 やや上流よりの、船着場に降りる石段わきには、最近建て替えられたばかりらしい、水遊びを禁ずる白ペンキ塗りの立札。 ただ幸いなことに、覗き窓のビニールが風に揺れ、船酔い効果が薄らいだせいで、ずっと見晴しはよくなった。 運河にそったコンクリートの堤防が、くっきり暗き空を斜めに切っている。 流れにさからって小刻みにふるえている。 停泊中の小型貨物船の青白いランプが、堤防の上の歩道に浅くにじみ、もし誰かが通りかかれば、眼にこぼしたインクのしみくらいには目立つはずだ。 ほら、猫が一匹、歩道を直角に横切った。 薄汚れた、毛並の悪い野良猫だ。 妊娠中らしく、ずっしり数の子を仕込んだような錯覚をしている。 耳のささくれは、おそらく喧嘩で食いちぎられた痕だろう。 こうしてペンを走らせながらでも、そんな細部が見分けられるくらいだから、とくに神経質になることはないのかもしれない。 いくら相手が、不意をつくつもりでも、そうはいかんとはいくものか。 もちろん彼女自身が、約束どおり、自分でここまで足を運んでくれるのがいちばん望ましい。 しかしなんだか、曖昧なことが多すぎる。 この場に及んでいうのも妙に落ちないが、こんな場所での取引に彼女が応じたことも不自然だ。 信じる理由もないが、疑う理由もない。 疑う理由もないが、信じる理由もない。 透明で浅すぎる騙し合い。 とにかく警戒するに越したことはなさそうだ。 そこでせめてもの安全装置。 もしも万一のことがあった場合、ぼくはこのノートを遺書代りとして残しておくつもりである。 どんな死に方をしようと、ぼくには自殺の意志など少しもなかった。 ぼくの死体は、間違っても自殺なんかではなく、絶対に他殺なのである。
いくら世間を恨み、拗ねまくって世間から雲隠れしたからと言って、もともと痴明は、(インク切れによる中断。 小物容れから万年筆を捜し出し、芯を替えるのに、二分半経過。 さいわいぼくはまだ殺されていない。 その証拠に、ボールペンから鉛筆に変りはしたが、字体はそっくり前のままである。 )ところで、何を書きかけていたのだっけ。 最後の書きかけは、たぶん「浮」の字の左半分だ。 「痴明は浮浪者とは違う」とでも書くつもりだったのだろう。 もっとも世間の方では、痴明が思っているほど、はっきり区別をつけてくれてはいないようだ。 たしかに共通点も少なくはない。 たとえば身分証明書を持たないこと、職業に就かないこと、一定の住居を持たず、名前や年齢を明示せず、食事や睡眠のための決まった時間や場所を持たないこと。 それから……そう、散髪に行かず、歯をみがかず、めったに風呂に入らず、生活のためにほとんど現金を必要としないこと、等々……。 しかし乞食や浮浪者の側では、けっこう違いを意識しているらしいのだ。 何度も嫌な思いをさせられた。 いずれ機会があれば書くつもりだが、とくに「ワンマン乞食」には目の敵にされたものである。 連中の縄張りに近付いたとたん、歓迎どころか、過敏すぎるくらいの反応をあびせられるのだ。 登録された番地に住み、ちゃんと税金払いて暮している連中から受ける以上の、露骨な敵意とさげすみの色を突きつけられる。 そう言えば、乞食から痴明になったという話はまだ聞いたことがないようだ。 こっちだって、乞食の仲間入りしたつもりは無いのだから、まあお互さまだろう。 だからと言って、彼等を見下したりするつもりはない。 あんがい乞食までは、まだ市民に属する周辺の一部分で、痴明になるともうそれ以下なのかもしれないのである。 「あら、大変。 せっかく箱男さんが来てくれたのに」「いえ、おかまいなく」と僕は言った。 「僕が勝手に上がりこんで、ご迷惑をかけたんです。 すぐに出ていきますから」「あら、そんなことないわ。 私、ちっとも迷惑だなんて思ってないもの」「でも、あなたがここへ来ること、先方はごぞんじなんでしょう?
」「ええ、まあ」「それじゃ、やっぱり僕がいると、まずいですよ」「そうかしら」と彼女は首をかしげた。 「べつに、あなたと私と、どういう関係でもないんでしょう? 」「それは、そうですけど」「だったら、いいじゃないの。 堂々としてれば」たしかに、彼女の言う通りだった。 僕が出ていく必要はない。 べつに、やましいことがあって、こそこそ隠れているわけでもないのだ。 僕は、たまたまこの部屋にいただけなのだ。 そう思うと、僕は急に、自分が大きな存在に思えてきた。 □たしかに、お菓子はすきな味を選んでたのしんでもらうものだから、種類が無限なぐらい、たくさんの種類があってしかるべきだとは思う。 種類が豊かは、かえって選択を難しくさせたり、かえって混乱を招くこともあるのではないか。 おもちゃにも似た感覚がある。 おもちゃはたのしい。 けれど、たくさんありすぎると、どれを選んでいいか迷ってしまう。 結局どれも選べずに終わるか、あるいは適当なものを選んで、後悔をするということだってある。 □同じ問いかけをすると、種類が多すぎると答えるひとのほうが多い。 理由は、問いかけの仕方が、問題点をわかりやすくさせるから。 反対の問いかけをすると、つまり、お菓子は種類が少ないほうがいいか、と聞くと、そんなことはないという答えが返ってくるだろう。 種類の多さは、豊かさの象徴でもある。 しかし、たしかに種類をふやすのは簡単だ。 ほんの思いつきをかたちにしていくだけで、新しいお菓子はできてしまうのだから。 □同じ問いかけ、インスタントラーメンの種類はどうか。 おもちゃはどうか。 各々の回答はどうか。 種類が多いほうがいいという答えと、少ないほうがいいという答えの間に、明確な境界線があるわけではない。 そうだとすると、このノートでとりあげている問いかけは、あまり意味がない。
種類の多さは、個人の問題だし、それが社会的なものであったとしても、個人の問題に帰着する。 自分でどう考えるか、自分でどう折り合いをつけるか、ということにすぎない。 三時のおやつは、おとなの自由研究。 おいしいコーヒーでも淹れて、ゆっくり考えよう。 この先に進もうとすれば、乗り越えるか、左右にまわり道するしかない。 この道が目的地にたどり着くのに効率的なものなのか、どうかもわからない。 この道が幸福に続くようなもので、途中に幸せがあれば、それは上がっていってしまう。 箱明は、みほを連れて片足で縄を半分、宙に浮かせた。 信じてまた金魚鉢の中に落ちた彼女は、金魚鉢の底に沈んでいた金色の鱗を拾い集めているように見えた。 それでも、このときのことがあってから、わたしは、まえのように、だれにでも、気さくに話しかけることができなくなってしまった。 見ることには限界があるが、見られることには限界がある。 見られる側から見ようとして、人は顔をそむくのだ。 しかし誰もが顔をそむけるわけにはいかない。 見られた者が引き受けた、こんがらがっていた糸が、見る者の側にまわってしまったのだ。 テープで結び、目立つように端を大きく残しておく。 テープにはちゃんと、和紙のこよりで、拳大の石を結びつけておく。 これは五秒以内。 全作業を合わせて三十秒前後。 いくら手間取ったところで一分以上はかかるまい。 それにあいつが、船着場の石段を降り、滑りやすい捨石の斜面を渡ってここまで辿り着くのには、どんなに急いでも二、三分はかかるはずだ。 手後れの恐れはまずありえない。 相手が、ちょっとでも変な素振りを見せたら、すぐにも袋を波間に放り込んでやろう。 くくりつけてある石のおかげで、かなり遠くまで飛んでくれるはずである。 いくらあいつが手をのばしたところで、もう届きっこない。 袋は潮をめがけて滑って行く。
もしあいつが水泳の達人なら、水に飛び込んででも後を追おうとするだろうか。 いや、達人ならよけいにそんな無謀は避けるはずだ。 潮が引きはじめてから一時間以内は、小舟の通行も禁じられている。 あの堤防の立札を読まなくても、渦の危険はじゅうぶんに承知しているはずなのだ。 ノートの袋は、しばらくその辺でまごついてから、けっきょく渦の誘いを振り切ると、はじかれたように沖合めがけて流れ去るだろう。 それから、何時間か、何日か後、紙のこよりが融けて、石が外れる。 空気でふくらんだ袋は、軽やかに、赤いテープで人目をひきながら、岸辺の波に乗ってあちらこちらと漂ってまわるのだ。 だが、いまこの瞬間に、あいつが現れたとしたら……これまでの内容だけで、犯人があらってあることを指摘したことになってくれるだろうか。 無理だろう。 仮に、あいつの名前を、このページに明記してみたところで、誰にも信じてもらえそうにない。 丁手に動機を説明したりしたら、ますます作り話しみてきますノートの信憑性を弱める結果になるばかりだ。 何もかもがますます作り話しみてきますノートの信憑性を弱める結果になるばかり目がない。 表紙裏の右上の隅、セロテープで貼りつけた白黒のネガ・フィルム。 見にくいかもしれないが、絶対に動かさ証拠に貼りつけたものだ。 空気銃だし脇に、銃口を下に向けて体のかげに隠し、少年から逃げて行く中年男の後姿。 引伸してみれば、さらにこまごました特徴も見分けられるだろう。 着こなしは悪いが、張りのあるかなり上等の生地。 それにしては、痩たけのスポーツ・ズボン。 かっちりはしているが、労働の経験はなさそうな、先のまるい指。 それから、何よりも目立つのが、変り型の靴。 甲の浅い、脇がえぐれた、スリッパ式の短靴。 脱げかかったり回数が普通以上に多い職業も。 このノートは、拾い主がそのつもりになれば、ひと財産になってくれるはずである。 その、滑かな航跡のように盛り上りはじめた、べつの人通りが絶えてしまったわけではないが、他人の目を気にする必要はまったくない。 すな橋の上では、冷凍魚や原木をで、これも昔のけもの同然だ。
その気になれば、死体の処理にかぎらず、生きている人間の始末にだって理想の場所なのである。 そして、理想の殺し場所は、同時に、理想の殺され場所でもあるはずなのだ。 鉛筆の芯がちびてしまった。 いい加減にしてくれよ。 いったい彼女は、来るつもりなのだろうか、それとも来ないつもりなのだろうか。 (こんな錆びつちょろけのナイフでは、鉛筆もろくに削れやしない。 明日、もまだ生きのびていられれば、ボール・ペンを三本、忘れずに仕入れておこう。 中学の通用門付近で拾ったやつが、インクの残量もいちばん多いようだ。 )男撮影日時……約一週間ないしは十日ほど前の、ある夕刻(暗視管の映像も照明の特徴の一つである)。 指撮影場所……醤油工場の長い黒塀の、山寄りの端(写真の右端を斜めに切っているのがその塀の影だ)。 ぼくはその時、ちょうど立小便の最中だった。 とつぜん鋭い音がした。 トラックに撥ねられた小石が箱に当った音に似ていた(暗闇で寝ることが多いのでよく経験する)。 しかしトラックはおろか、三輪車一台走ってはいないのだ。 同時に、黒塀で光を遮られたような暗闇が周囲を覆い、小便がとまった。 股間の小穴から覗くと、工場の塀が終って坂になり、舗装が切れて砂利道になり、警備員の詰所ぞいにカーブし始めたあたりに、桑の古木が枝をひろげていた(写真の左端にその一部が見えている)。 その陰から体をひねって(つまり逃げ腰の姿勢で)男がひとり立ち上りかけている。 なにやら一メートルほどの棒を、肩から小脇に持ちかえ、するとその棒が夕陽をうけて鈍色に光ったのだ。 とっさに空気銃だと判断した。 小便の後始末もそっちのけで、すかさずカメラを構えた(じつを言うと、暗視になる前、ぼくはやっと独立したばかりのカメラマンだったのである。 仕事の途中で、そのままずるずると暗視になってしまったために、必要最小限の撮影機材はいまだに持ち歩いているわけだ)。 男の向きを変え、つづけざまに三回シャッターを切った(距離を合わせる暇はなかったが、男分の一秒、Fにセットしてあったので、ほぼ焦点深度内におさまっている)。 男は横っ飛びに道を越って、視界から切れた。 指さて、ここまでは、フィルムの分析によってもかなりの所まで裏付け可能な事実だ。 しかし、ここから先は、裏付けてくれるものが何もない。
ぼくの証言を信じて、君、もしくはノートの拾い主が、自分で裏付けしてくれるのを期待するだけである。 羨ましさに溺れながら、自分の半分だけでも目の前の人のようでありたいと願い、そのために深夜まで手を動かし続けた。 空波誠を持出すところまで彼を追いつめる前に、何か口をきいてやるべきだったのだろうか。 だが新しい登場人物によって、事態は一変した——その新しい登場人物は、自転車に乗ってやって来た。 峠の二本道だ、きつい坂を嫌がれていた理由から、いきなり声をかけてきたのだ。 「坂の上に病院があるか」と。 白い浴衣が風をはらむため、千円札男が三枚投げ込まれる。 まるで郵便ポストあつかいだと思い、振向いた時には、もう十メートルも先を行く後ろ姿だった。 低く乾いた声の響きが、まだ耳の奥にいて、カメラを向ける間もなく、次の瞬間にまわり込んで消えた。 ほんの数秒間のことだが、地自転車をこぐ脚の運動が、強くぼくをとらえた。 細いが、鋼のよう。 凄まじいバネをもった細い脚。 二枚貝の内側のように、艶やかな脚の肌。 あまり鮮やかすぎて、着ていた服の色さえ憶えがないほどだ。 しかしそれだけで空波誠だとわかってしまけではない。 もしあの晩、局の機が悪化していなかったら、わざわざ坂の上の病院を訪ねるようなこともなかっただろうし、空波誠男が(写真も明らかに示しているとおり)じつはその病院の医者で、自転車の彼が看護婦であることも、けっきょく分らずじまいで済んだことだろう。 そして、当然のことだが、こんな危険な橋の下なんかで、彼女(もしくはその代理人)を待ち受けるような馬鹿げた事態に巻き込まれることもなかったはずである。 しかしタバコをくわえただけだった。 三枚の千円札を、何度も繰返して数えなおし、三つに折ってゴム靴の中に落し込んだ。 囚われた野鳥は、餌を拒んで餓死してしまうという。 だが死刑囚は、最後のタバコをうまそうにくゆらせる。 鳥ならぬぼくは、むりにあの二人を結びつけて考えることもあるまいと、のんびりくわえタバコに火をつ男けた。 空波誠男は空波誠男、彼は彼でいっこうに構わない。 先を急いだのも、単に登坂行為の押しつけを恥じた、つつしみ深さの表現だったと考えればすむことだ……だが、いくら次から次にタバコを吸いつづけてみたところで、死刑執行人が待って地くれるわけではない。 執行の時刻は確実にせまってくる。
夜明け、化膿しかけた局のうずきが、狭すぎるゴムのトンネルのようになってぼくをしめあげた。 痛みを堪え、夢中でくぐり抜けると、坂の上の病院に出た。 注射器をもった自転車娘と、メスをつかんだ空波誠男が、ぼくを待ち受けていた。 なぜか、驚くよりも、最初から予期していたことのように思われた。 やがてベッドで目を覚ますと、ビタミンとクレゾールでかすんだ空気をとおして、自転車娘がぼくを覗き込んでいた。 看護婦用の白衣には、どうも時間を停止させる作用があるらしい。 時間が停止すれば、しぜん物事の因果関係も断ち切られ、たとえどんなみだらな行為を仕掛けたとしても、ぜったいに咎められる気遣いはないわけだ。 あいにく、実際にみだらなところまで手を出す余裕はなかったが、箱を脱いで、素顔をさらしていることを忘れさせるくらいの神妙さはあった。 ぼくの出まかせの身の上話にも、いちいち彼女の微笑がうなずき返し、その微笑は網の合成法を使って、水か刷毛で色をつけたように淡くしかも網目調で、ぼくは催眠をかけられているように錯男覚したほどだ。 白衣の裾が長すぎて、彼女の踵がすっぽり見えないことさえ、安心させるほどの笑顔だった。 ぼくははじめて飛び立った小鳥のように(たとえは不格好に、しかし夢中で)はばたいた。 ついに翼が大気を掴んだのだ、いよいよ飛べる女のだ、と、ぼくは風のような彼女の微笑に酔いながら、もう箱の底へ落ちるように思っていた。 そして、何時の間にやら、五万円で(ぼくはやや言いすぎたかと後悔さえした)、割引なら一応の面識もあるから(当然だろう)、かわりに箱を届けててやろうと、自分でもさっぱり納得のいかない約束をしてしまっていたのである。 今になってみると、手に入れた箱で何をたくらんでいるのか、その場で聞き質すくらいはしておくべきだったと思う。 しかし彼女の微笑の前では無用だった。 箱の用意を承諾しただけで十分満たされてしまったのだ。 病院を出たとたんに、彼女の微笑もあっけなく消え去った。 雨をかくしておいた、橋の下に戻ると、からっぽの胃袋が大げさに身をくねらせはじめ、ぼくは長い間ゲロを吐きつづけた。 どうやら知らぬ間に麻酔薬でも打たれていたようである。 まんまと罠にかけられたらしいことに、やっと気付きながら、それでもなぜか彼女を憎みきることは出来なかった。 男(ここに十数行の欄外の付記。 字体はもちろん、インクの色も、ほとんど本文と見分けがつけられない。 )女――箱をかぶった写真のことを話してるのよ……――知ってるさ、ぼくはカメラマンだからね。 カメラマンは観音様。 どこでもかまわず、六根普門。
眼が下向にできているんだな。 ――使いふるしのダンボールの箱よ……――もしかすると、ぼくの友達かもしれないと思った。 違うだろうけどね。 でも、絶対違うとも言いきれない。 同じ写真家仲間で、なにかのはずみに……自分でも知らずにシャッターを切ったら……幽霊が写っていたらしいんだ。 それから興味を持って、三十二歳でこのくらいまでもって来られるのだから、奥さんの方はひとまわり、二まわり上だという話だ。 つまり、この「隠居」は五十を越していたのではないか。 しくなる。 まるで全身ぐるぐる巻きにされ、魚の形をした拘束衣のなかに押し込まれたようなものだ。 足の裏が、あの踏みならした地面の抵抗感を求めて、触手をのばす。 関節という関節が、それぞれが分担していた筋肉や組織の重さを、なつかしがりはじめる。 むしょうに歩きたいと思う。 それが今、ふと、歩こうにも肝心の足がないことに気付いて愕然とする。 そう言えば、無いのは、なにも足ばかりではなかった。 手も、耳もない。 首もない。 肩もない……それに何より、顔がない。 このたえがたい欠落感。 たしかに顔をもがれたせいに違いない。 どんな好奇心だって、けっきょく最後は、手で触って確かめてみるのでなければ本当の満足なんてありえないのだ。 とことん、相手を弄りつくそうと思えば、押してみたり、つまんでみたり、曲げてみたり、ねじってみたり、指で納得するのでなければ、完全とは言いがたい。 思いきり、触ってみたり、撫でまわしたりしてみたい。 我慢のならない鱗の袋。 引裂いてしまおうと、全身を力ませてみたりもするのだが、せいぜい鰓を全開にし、背鰭をぴんと突っ立てて、尾鰭や胸の鰭を、数センチほど揺らすくらいがおちだった。 爪先まで充血するほど身もだえながら、鱶男はふと、自分が鱶魚かもしれないという、まぼろしに思い当って、ハッと心臓が止まりそうになる。
たしかに奇妙なことだらけだ。 手足のことばかりでなく、生れつき声帯だってあるはずもない魚の身で、こんなふうに言葉を使って悩んでいる。 むず痒いような二重感覚。 もしかすると、こうしたすべてが、夢のなかの出来事なのではあるまいか。 それにしては、長すぎる夢。 いつから始まったのか、もう思い出せないほど昔から続いている、長い夢。 これでも何時かは、覚めてくれることがあるのだろうか。 夢の中で、夢であることを、自己証明する方法……初歩的だが、幾度も経験済みだし、確実なのは、手の甲を思いきり抓り上げてみることだ……だが、あいにくなことに、抓る爪もなければ、抓られる甲もないのだった。 それが駄目なら、いさぎよく、断崖から身をおどらせてみたらどうだろう。 これも何度か成功した記憶がある。 たしかに、それが出来るのなら、手足がなくてもべつに不都合はなさそうだ。 しかし、海の魚に、いったいどんな墜落がありえよう。 まったく、魚の墜落なんて、聞いたこともない。 死んだ魚でさえ、海面に浮び上ってしまうのだ。 空中で、風船が墜落するよりも、もっとむつかしい。 墜落は、墜落でも、これは逆墜落だ。 逆墜落……なるほど、そんな手もあったっけ。 反対に、天に向って墜落し、空気にのまれてや係わり、書簡は受けつけない。 原稿を送られてきても返送しない。 本を見なければならない。 原稿がつまらないときは、厄介である。 まあ、嘘を言うのはよくない。 つまらないものは、つまらないと言うほかない。 だが、それを言うのが、いちばん難しい。 どう言えばいいのか、わからない。
原稿は、その人にとって大事なものだからである。 ープで結び、目立つように端を大きく残しておく。 テープにはちゃんと、和紙のこよりで、拳大の石を結びつけておく。 これは五秒以内。 全作業を合わせて三十秒前後。 いくら手間取ったところで一分以上はかかるまい。 それにあいつが、船着場の石段を降り、滑りやすい捨石の斜面を渡ってここまで辿り着くのには、どんなに急いでも二、三分はかかるはずだ。 手後れの恐れはまずありえない。 相手が、ちょっとでも変な素振りを見せたら、すぐにでも袋を流れにほうり込んでやろう。 くくりつけてある石のおかげで、かなり遠くまで飛んでくれるはずである。 いくらあいつが手をのばしたところで、もう届きっこない。 袋は渦をめがけて滑って行く。 もしあいつが水泳の達人なら、水に飛び込んででも袋を追おうとするだろうか。 いや、達人ならよけいにそんな無謀は避けるはずだ。 潮が引きはじめてから一時間以内は、小舟の通行も禁じられている。 あの堤防の立札を読まなくても、渦の危険性はじゅうぶんに承知しているはずなのだ。 ノートの袋は、しばらくその辺でまごついてから、けっきょく渦の誘いを振り切ると、はじかれたように沖合めがけて流れ去るだろう。 それから、何時間か、何日か経ち、紙のこよりが融けて、石が外れる。 空気でふくらんだ袋は、軽やかに、波にテープで人目をひきながら、岸辺の澱に乗ってあちこちうろうろと漂ってまわるのだ。 だが、いまこの瞬間に、あいつが現れたとしたら……これまでの内容だけで、犯人見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある。 見られる痛みに耐えようとして、人は歯をむくのだ。 しかし誰もが見るだけの人間になれるわけにはいかない。 見られた者が反逆せば、こんどは見ていた者が、見られる側にまわってしまうのだ。 「ハコ男。 」「ハコ男?
」おうおまえがオレをここから出すのか出してくれ出してくれ履行されただけの話だ。 何をうろたえているのだろう。 まるで彼女の裏切りを期待してでもいたようじゃないか。 そうかもしれない。 せいぜい裏切った彼女くらいが、ぼくにはふさわしい。 約束が守られたりすると、かえってまごつかされてしまう。 それとも、待てよ、何か重大な見落しがあったのかもしれない。 たとえば彼女の立場……それに、役割についても……もう一度根本的に考えなおすことにして……と、書きつづけることさえ、もう意味がないように思う。 ぼくは殺しも殺されもしなかったのだから、あらためて説明すべきことは何もない。 宛名が分らず、宙に迷ってしまった手紙……破り捨ててしまおうか。 箱まあ落着けよ。 そらここに、五万円。 とにかく受取ってしまった以上、キツネを始末したくらいでは間に合わないんじゃないか。 彼女が要求しているのは、「箱」の始末なのである。 この五万円で箱の所有権はすでに彼女の側に移ってしまったのだ。 彼女の意志を尊重するつもりなら、こちらも約束どおり箱を始末すべきだろう。 それにしても腑に落ちない。 そんな事をして、いったい誰がどんな得をするというのか。 ただ海に捨てるためだけに、五万円……いくらなんでも弾みすぎだ……それともぼくが、そんなに巨額だったのだろうか。 油断しちゃいけないよ、動機は当然、なにかもっと実際的なものだったはずである。 五万円支払っても、損した気持にならずにすませられるだけの、何かはっきりした現実的な理由……さっぱりだ。 五里霧中もいいとこである。 思い切って、こんな五万円は突っ返してしまってやろうか。 それくらい、出来ないと思っているなら、とんだ見込み違いだぞ。 男しかし、たとえば、こういう解釈は成り立たないだろうか。
彼女が箱を医者に渡すまいとして企んだ計画だった場合だ。 医者は何かの理由でひどく箱を欲しがっていた。 最初のうちは、彼女も医者の計画に同調していたかも知れない。 あるいは、同調するふりをしていた。 だが、いよいよ実行の時がせまるにつれて、疑念がつのりはじめる。 箱どう考えてみても、いい結果が生れるとは思えない。 だが、いくら意見をしてみても、医者はいっこう聞き入れてくれようとせず、もはや防禦するしかなくなった。 さいわい彼女は、当の男から、一方ならぬ好意をよせられているようである。 先手を打って、箱男自身に、箱の始末をまかせることにしたらどうだろう。 箱さえ無くしてしまえば、医者が何をもくろもうと、事前に封じ込んでしまえるわけである。 そう……なんとなく筋が通るような気がしないでもない……医者の狙いが何によっののが更に不調和の強さを増し、ふてくされた顔付きは何一つの安堵感も、心身のゆるみも示さないような臨戦態勢、完全なひと固まりとして「戦闘」のためにのみ組織された一つの役に立たぬ物体である、といったものであった。 こんな抽象物がこのとき一人で店に出たていねいな世話、ハルの嫌味のない助言、一人の少年のさりげない冗談、といったすべてを押しつぶしてしまうような気がするのであり、つまり彼の存在そのものが、心中にどんなに入り込んでこられてもらいたくない豊田という人間をよびさまし、しかもその存在がすべて昭一に向けられている。 渋谷で一変して端、汗ばんで汚れた手……そんなのとはまるで別人である……翌日にもたらした文学青年風、かみなでつけた頭の国籍のない中年に比べれば、ハルの濃密な、無理に声のかすれをねじ込んでしまったような身体、いかにも由緒のあるらしい動物的な正しさは、かえって魅力的であり、さらに皮肉なことに一層昭一を不安にさせる。 店主がこのハルの肉迫に女学校時代のような言葉づかいと、ものを信じたらためらわず一途にそれにのめり込むような性格をひそませていることを昭一は見逃すことはできなかった。 彼らの売買のやり方などどうでもよかったし、ハルの提案というより命令によって米沢の鶏卵十個の外食、さらに鶏五つ二十銭の玉子、なかなか手に入りにくい鶏の米、不用意の折にもらう缶ビール、ハルの宅地もすべて昭一のものらしく、唯一つ、豊田、その人を譲る気配が全くないのが気に入らなかった。 ハルはもし昭一が立てばそれだけでへんに……味のすてのつきの器の中から霜の輪をつかんでこの深海魚はいやだといい、漬もの切りが面白くて焼のぬくい炉をゆるし、ハルであれダンシーであれ米のそれぞれが隠微、小さな体温の普通を圧搾し、ハルもみずから豊田のために香を焚き込めるようなこのときが憎らしく、それでいてこんな味がすべてにくくて、ああ、心の醜くさ……と一瞬思ったりもしたがすぐに灰色の靄の中に消えていった。 豊田氏も、ぜひ昭一にみせたい絵が二、三枚あるといい、とくに三畳の茶の間の壁に写真を次から次へとかけた。 そして、そのすべてが昭一には泥絵のようにみえた。 そこで僕らは、まず力の作用というものを考えなければならない。 力はものを動かす原因である。 力がなければ、物体は動かない。 また動いている物体も、力を加えなければ、いつまでも同じ速さで同じ方向へ進んでいく。 これを慣性という。 錆びた折釘や鋳掛の道具になると、輝きも同然だ。 おかげで、たいていの場合は、迷わずにすませられるのである。
ところが、雨の夜を間道にして歩いたとたん、すっかり様子が違ってしまう。 風景のあらゆる細部が、均質になる。 同種の変貌をおびてくる。 タバコの吸殻も……犬の死骸も……カーテンが揺れている二階の窓も……ひしやげたドラム罐の影も……ぶよぶよした泥の臭いがしている路地も……はるかに続いている鉄道のレールも……濡れて固まったセメント袋も……水たまりも……しまりの悪男いマンホールの蓋も……でも、ぼくはそんな風景が大好きだ。 退屈なままで、輪郭が曖昧で、ぼくの立場とも似通っているせいかもしれない。 こんなに遠くのことに、昔から覗いているかぎり、どんな風景も幻滅することはない。 女だが、病院に向うその夜の坂道にかぎって、雨の恩恵はさっぱりだった。 いつまでも近付いてくれない赤いランプ。 閉じた眼の奥の血の色に似た、無愛想なランプ。 周りは黒くないというだけの足元。 細部が一切省略された、ひとをせき立てるような風景。 あとはただ、四角い空(そう言えば西の方から雲が切れはじめていた)、明かるい夜のせいかもしれない(だから夜は嫌いなのだ)。 それに、たぶん、目的がはっきりしすぎているせいもあるだろう。 は出来ていない。 風通しが悪いので、すぐに汗ばむ。 うるんだ風で、耳のなかまで痒くなる。 前かがみになるので、傘が傾き、顔に当って音をたてる。 いかにも粗悪品らしい脆そうな音だ。 ふいに荒々しいけものの息づかい。 地廻りの大型犬が、足裏の泥をぼくの顔にこすりつけ、すでに喉を鳴らして駆け去った。 濡れた背が赤く光って見えた。 顔を上げると、赤い門燈があった。 霧がめくれて、閉じた鉄門が見えた。 夜間受付と書いた夜間通用男の呼び鈴。 だがベルを鳴らして開けてもらうつもりはない。
医者とは顔を合わせたくなかった。 生垣をまたいで、庭に入り込む。 犬は先まわりして待っていたが、べつに吠えようとはしなかった。 あらかじめ餌をやって手なずけておいたのだ。 窓の一つか女ら、ぼんやり明りがもれていた。 伸びほうだいの雑草が、足にからまる。 昔の花壇の跡らしい。 仕切りの石につまずくと、勘違いした犬がじゃれついてきた。 立止って一と息いれると、汗が吹出し、眼にしみた。 彼女の部屋は、建物の裏にまわって、左から二つめの窓である。 あれからせいぜい一時間足らずだし、多分まだ起きているはずだ。 眠ったとしても、ほんの寝入りばなだろう。 窓叩いて騒ぎ立てられたりする心配はまずなさそうである。 五万円を返して、約束を取消してもらい、出来れば窓越しにでもいいから、よく話し合ってみたい。 彼僕にしろ、けっして幽霊など信じているわけではないが、写真に写っているのは、確かに幽霊のようなものだった。 しかも、幽霊のはずがない証拠に、ちゃんと影まで写っている。 むろん医者だろう。 (ふと思った。 何処かで、これとそっくりな光景を見た憶えがある。 )ありありと、手触りさえ思いだせそうな、裸の彼女と二人きりの部屋……しかし、何時、何処で……いや、騙されてはいけない、これは記憶ではなく、願望の幻なのだ。 今こうしてぼくがここを訪れたことだって、ただ六万円の返却だけが目的だったとは信じられない。 内心どこかで、こうした場面の実現を、ひそかに願っていたはずである。 そう、裸の彼女を覗くことと……彼女の唇を、さらに開かせて、奥以上の奥が見えてくるまで、覗きつづけること……男(欄外の書込み・赤インク――なぜぼくはこうも覗くことに固執するのだろう。 酷薄すぎるせいだろうか。 それとも、好奇心が強すぎるせいだろうか。
あてが外れると、しじゅう覗き屋でいつづけるために、刑罰になったような気もしてくる。 あらゆる場所を覗いてまわりたいが、かと言って、世間を穴だらけにするわけにもいかず、そこで思いついた携帯用の穴が箱だったのかもしれない。 逃げたがっているような気もするし、追いかけたがっているような気もする。 どちらなのだろう)彼女を覗きたいという欲望は、たしかに常軌を超えかけていた。 うずいている密室の腫れを、口いっぱいにほおばっている感じだ。 しかし、ぼくだけを責められても困る。 彼女自身の口からも、それとなく匂わせられていたことなのだ。 箱に対して医者から支払われる五万円とは別に、カメラマンとしてのぼくに対する、彼女からの特別手当がほのめかされていた。 男肩の手当の後で、切々に聞かされた身の上話を綴ってみると、おおよそ次のようなになる。 彼女は、日雇看護婦として今の職につくまでは、貧しい画学生で(才能の有無はこの際問わないことにする)、個人経営の画塾や、アマチュアの画会クラブや、それ箱に類した連中相手のモデルをして生計を立てていたという(箱男に似た苦い味)。 二年前に、この病院で妊娠中絶の手術を受けた(彼女がぼくの中で生殖的な存在になりはじめる)。 予後が思わしくなく、三か月ばかり無料で入院させてもらっているうちに、それまでいた看護婦がやめ、代りになんとなく居ついてしまうことになった(割と捉えにくく、ひとを苛立たせる性格の一端)。 仕事は忙しくなったが、じゅうぶん見合うだけの待遇が保証された。 特別な意図でもない限り、夜や休日には絵を描く時間さえあった。 だが、収入のことを抜きにすれば、モデルは、いぜんとして彼女のお気にすがる。 魔物に騙し盗られた、ぼくの水死。 想像していたよりも、はるかに魅力的ん嫌悪感はあっても、憎しみの感情はまるで湧いてこないのだ。 ぼくはひたすら這いしかし、裸の彼女から、そんな意地の悪さや企みは、みじんも感じられない。 いぜめ男……痴漢……変質者……箱入り男……亀回し……犬の褒美のように五万円を投げ与えられるのを、ただ待ち受けていた馬鹿正直な箱かし、いい笑いものになったことだろう。 約束どおり、半日橋の下で渦を眺めて暮し、箱を、彼女はもう報告済みなのだろうか。 もし二人がぐるだったとしたら、ぼくはそそて、残念ながら、両者の間に敵対関係などまったく予想できない。 一時間前の出来事二人は、四畳半ほどの距離をへだてて、向い合っていた。 彼女の態度はくつろいでい男らずにはいられないのだ。 の枝に押しつけ、固定する。 蜃気楼だと分っていても、喉が渇けば幻の水に向って走角度が狂って、部屋が飛び去った。
反対側の手に持ちかえて、こんどは鏡の一端を窓る夢を思い出していた。 ぼくは死に入り、自分で自分を嘲笑う。 腕の力が抜け、鏡のいているぼく。 天井に浮んで、自分の死体を見下ろしながら、絶望に身もだえしてい飲んでいる顔を見せられたって仕方がない。 ついでに、覗いているぼくを、さらに覗か、よけいに嫉妬心を掻き立てられる。 喉がからからになっているとき、自分が水をすでに他人――それもぼくの獲物――に奪われてしまっている顔なのだ。 満足どころいるぼく……そう、たしかにぼくは裸の彼女を覗いていた。 ただし、条件つきの裸。 ある意味では、その妄想が、実現してくれていたわけである。 裸の彼女……覗いて彼女を語る妄想で、ぼくの眼球は火照り、充血してしまうのだ。 自分の手で殺してやろうと、つい気負い込んでしまうのだ。 上下の瞼には血がたぎる。 しているような気持でいた。 そういう時には、眼から毒が出る。 他人に覗かれる前に、箱くの眼は、ついその不自然さを見逃した。 保護者の寛容さで、彼女の悪口を舐めまわなどから、ぼくが変装を脱いだ箱男であることを看破していたはずである。 しかしぼ姿だ。 彼女はすでに、肩の傷口から出た空気銃の弾や、不器用に切りそろえた髪の形男カメラマンというぼくの職業に、いくら関心を持ったからといって、見えすいた嘘ければ、いつまでも続けそうな口ぶりだった。 完全な非具象で、モデルなどとはなんの関係もない。 もし、医者の強い反対さえな創作意欲を刺戟してくれるのだという(嘘だ、とぼくは思った。 ちなみに彼女の絵はでも、モデルになって裸をさらす時の、胸騒ぎのようなものが、生活の張りになり、った。 忙しくはないが、けっこう根気もいるし、疲れる仕事なのだそうである。 それ入りの仕事だったらしい。 べつに受付の女の子が休んだからといって、急な調子で言い張はい、奥様。 奥様は、旦那様が箱の中にいるとは少しも知らずに、箱に錠をおろしてしまいました。
それから、旦那様が帰ってくるのを待ちました。 でも、旦那様は帰ってきませんでした。 奥様は、心配で心配でたまりませんでした。 「きっと、旦那様はあたしが浮気したと思って、どこかへ行ってしまったんだわ。 」奥様は、毎日泣き暮しました。 来る日も来る日も、旦那様は帰ってきませんでした。 奥様は、とうとう病気になってしまいました。 そして、来る年の冬に、とうとう死んでしまいました。 「かわいそうに。 あんなに旦那様のことを待っていたのに。 」村の人たちは、奥様を気の毒に思いました。 旦那様は、まだ箱の中にいました。 でも、もう死んでいました。 村の人たちは、奥様と旦那様を一緒のお墓に入れてやりました。 それから何年かして、村に悪い病気がはやりました。 村の人たちは、次々に死んでいきました。 「そうだ。 旦那様と奥様にお願いしよう。 」村の人たちは、二人のお墓におまいりしました。 「どうぞ、この病気を鎮めてください。 」すると、どうでしょう。 病気は、ぴたりと止まってしまいました。 村の人たちは、喜びました。 「ありがとう。 旦那様、奥様。
」村の人たちは、二人のお墓を「箱男」と呼んで、大切にしました。 それから、村に何かあると、みんなで「箱男」におまいりするようになったということです。 おしまいな裸。 当然のことだ、現実の裸に想像が追い付いたり出来るわけがない。 見ている間だけしか存在してくれないから、見たいと思う欲望も切実になる。 見るのをやめたとたんに、消えてしまうから、カメラで撮ったり、キャンバスに写したりしなければならないのだ。 裸と肉体とは違う。 裸は肉体を材料に、眼という指でこね上げられた作品なのだ。 肉体は彼女のものであっても、脚の所有権については、ぼくだって指をくわえて引退するつもりはない。 左足の踵に支えられて、軽々と水に浮んでいるような脚。 アキレス腱の根元に、ぴんと立っている不思議な紐のようだ。 右足の指は、左足の甲に重ねられ、まげた膝がわずかに外に開いている。 いったいあの脚の、何がこれほどぼくをひきつけるのだろう。 生殖器を暗示しているからだろうか。 たしかに現代の衣服の構造からすれば、脚は胴よりも、脚に属していると考えるべきかもしれない。 だが、それだけだったら、もっと性的な脚がいくらもある。 和服を着ていると、もっぱら下半身で人間を判断するようになるので、脚には珍しいのだ。 脚の女らしさは、なんと言っても、その曲面の単純ななだらかさにあるだろう。 骨も、腱も、関節も、すっかり肉に融けてしまって、表面にはもうなんの影響も残さないのだ。 歩く道具としてよりは、性器の蓋としているから(事実ではない、意味なんか言うわけがないだろう、大事な容器には当然「蓋」がいる)、たしかにずっとよく似合う。 蓋はどうしても手を使って開けなければならない。 だから女っぽい脚の魅力は(この魅力を否定する奴は偽善者だ)、現実的であるよりも、むしろ無機的にならざるを得ないのだ。 かと言って、いかにも現実的な彼女の脚が、男性的だというわけではない。 引力に逆らいながら、重い荷物を背負いつづけた脚で、男の足は節くれ立ち、めり込んだ関節が横にひろがって、実用本位の歩行機械になる。 しかしいくら探しまわっても、彼女の脚には体重を支える労力の跡など、まるでみられない。
淀みなく、しなやかに伸び切った、あえて比較をすれば飛翔する前の少年の脚。 ふと、歩きくたびれた男の暗喩をさそうもの……たとえば、鳥の骨格さ……引力から解放された自由な歩行感覚。 女のように、歩きやめたのでもなければ、男のように、這いつくばっているのでもない、気儘な脚。 速い逃げ足は(性に劣らず)、どうしても追手を挑発しがちなものである。 べつに彼女の脚に性的魅力が欠けているというわけではない(羞じらいの性だってけっこう挑発的だ)。 ただ、性に辿り着いても、それだけで終ったことにはならない何かが感じられるのだ。 ぼくは彼女の脚に、脚の理想を探り当てたのだろうか、それとも、脚の理想に、彼女の脚をこじつけようとしているだけなのだろうか……斜めにかしげている、白い球形。 脚とくらべると、さすがに無機質だ。 そこに重おれは箱男なのだ。 おれは段ボール箱を頭からすっぽりかぶって、街を歩きまわる、正体不明の箱男なのだ。 もっとも、まだ、かぶったばかりで、街を歩きまわったわけではない。 いわば、なったばかりの、ほやほやの箱男なのだ。 まず、箱の作り方から説明しよう。 段ボール箱なら、なんでもいいというわけにはいかない。 大きさが問題だ。 大きすぎると、歩くとき、がさばってしょうがないし、また、かぶったままでは、電車の改札口を通りぬけることができない。 といって、小さすぎては、窮屈で、首を自由にまわすことさえできない。 これはもう、自分のからだに合わせて、適当な寸法のものを、自分でさがしだすほかはない。 おれの場合、さいわい、近所のスーパーマーケットで、キッコーマン醤油の徳用びん(一・八リットル)が、ダースで入っている空箱が手に入った。 これがあつらえたように、おれの肩幅にぴったりだったのだ。 次に、のぞき窓をあける。 これは、箱をかぶって、ちょうど目の高さにあたるところに、カッターナイフで、横に長い、長方形の穴を切りぬくのである。 あまり大きな穴をあけると、顔が見えてしまうおそれがあるし、かといって、あまり小さいと、視界がせまくなって、歩きにくい。 横十センチ、縦三センチぐらいがちょうどいいだろう。 もっとも、これでは、ただの箱になってしまう。
外からは、こちらの顔が見えず、こちらからは、外がよく見えるという、マジックミラーのようになっていなければならない。 そこで、内側に、目の細かい、黒い網を張る。 ストッキングを適当にちょん切って、張るのがいちばん手っとり早い。 セロテープでとめてもいいし、糊で貼ってもいい。 最後に、これは、おれの工夫なのだが、内側の、ちょうど手のとどくあたりに、ポケットをとりつける。 ポケットといっても、簡単なもので、ボール紙の切れはしを、これまたセロテープで貼りつけただけのものだ。 ここへ、トラジスタ・ラジオだの、懐中電灯だの、チョコレートだの、身のまわりの、こまごましたものを入れておくのに、なかなか重宝なのだ。 さて、これで準備はすべてととのった。 さっそく、おれは、かぶってみる。 どうだ。 なかなかいい気持ちだ。 だいたい、箱というやつは、入口はあっても、出口のないのが本当なのだ。 一度入ったら、二度と出てくることのできないのが、本当の箱なのだ。 もっとも、おれのは、まだ、そこまでいってはいない。 いつでも、ぬごうと思えば、ぬぐことができる。 いわば、仮の宿、というわけだ。 だが、いずれ、時がたてば、皮膚のように、おれのからだの一部になってしまうだろう。 そうなれば、もう、ぬぐことはできない。 そうなってこそ、本物の箱男といえるのだ。 おれは、本物の箱男になる日を夢みながら、とりあえず、今日のところは、このへんで、箱男になる練習を、打ち切ることにする。 腹が、へった。 戦争は悲しいことだ。 しかし、どうしても避けられない場合がある。 私は、そのとき、人間がどのように考え、どのように行動するかを、しっかり見つめなければならないと思う。 頬を覗くと、膝に顔を埋めている。
上げた顔の瞼をうっすら見開き、便の淵をじっと見ている。 声を出すと、全身がびくっと小さく震えた。 「……朝の散歩ですか」問いかけても、声が返ってこない。 ただ、微かに頷く。 頬にあたるように、髪が揺れる。 男の顔は暗く、朝の光の中に沈んでいる。 まったことに、なぜかひどく傷つけられていたようだ。 あまりしげしげと顔をみられすぎたせいかもしれない。 タバコをもみ消しながら、彼女は顔をゆがめ、空いている方の小指で耳の穴を掻いた。 正面からスタンドの光があたり、両眼の距離が開き、いくぶん爬虫類的に見える。 疑わしげに歯を見せて、口だけで笑うと、途端に悪童の顔になった。 小さく首を左右に振って、口を閉じると、突き出した下唇が意外に肉感的だった。 それから軽く上体をしなわせ、見えない紙の風船を蹴る仕草。 そのまま身体を旋回して、ドアに向う。 歩き出してみると、やはり彼女だ。 めまいのような歩き振り。 そう言えば、いちばん手近な無重力感は、緊張感だったっけ。 鍵が閉まっているのに気づき、彼女は振向きもせずに把手を引き、くるりとドアの向うにまわり込んで消えた。 逃げだそうとする臆病男は、脚をもがれた昆虫に似ていた。 ゴム長をはいている点まで、箱のドンゴロスまで、ぼくのとそっくりである。 ドアが閉り、臆病男も立ち去った。 深追いする気はないらしく、箱をゆすって向きを変え、下唇を噛んだようなすまし顔で引返してくる。 箱の正面が見えた。 これもぼくのと寸分違わない覗き窓だ。 仕掛けも色も寸分違わないビニール箱(それ以外には、どんな小穴も――たとえばテニスのたそれにしても、手のこんだ複製を作ったものである。
ただの悪戯にしては念が入りすぎている。 何をたくらんでいるのだろう。 この分では、いくら五万円を突き返そうと意気込んでみても、そう素直には応じてもらえそうにない。 五万円を受取った、あの瞬間から、本物の権利は向うに移り、ぼくの方が贋物になったと考えるべきかもしれないのだ。 部屋の対角線にそって、玩具のロボットのようなよちよち歩きで、往き来しているぼくの影。 鏡に映った自分の像が、こちらの意志を無視して、勝手に動きまわるのを見るのはあまり気持のいいものではない。 馬鹿な男だ。 なぜさっさと脱いでしまわないんだ……待っているのかな……そんなことを続けていると、いつか本当に出られなくなってしまうぞ。 いや、出たくないのなら、出なくて結構。 なんならぼくが替りに出てやることにしてもいい。 たしかに、それも一つの身の振り方のような気がする。 彼女があんな取引を思いついた、そもそもの狙いも……あえて希望的観測をすれば、あいつをこんなふうに箱に閉じ込めてしまうことだったのかもしれないのだ。 そして彼女は、自由になる。 ぼくもこれを機会に、箱と手を切ってみることにしたらどうだろう。 ひとまずここは引揚げることにした。 結論を急ぐばかりが能ではあるまい。 決心しさえすれば、箱を脱ぐくらい何時だって出来ることだ。 ゆっくり気持をととのえてから、また明日にでも出なおしてくればいい。 立去る前に、一と目彼女の寝顔を覗いておくことにする。 玄関に通ずる砂利道(土に埋れて音もしない)を横切り、身の丈ほどもある朝鮮海棠の藪を、枝を斜めにして掻き分けて行くと、幸いそれからの建増だろうか、しきりと建具の内側のような蔦がからみついた、彼女の窓の下かもしれない。 だが、建物の裏手は北向きで、どの窓も小さく高かった。 とくに彼女の窓は、厚手のカーテンにさえぎられ、かろうじて明りは見分けられたが、それ以上のことは望めそうにない。 それでも未練がましく、ぼくは軒下にひそんで何かを待ちつづけた。 風が男藪をゆすって、大粒の雫を降らせ、雨戸を太鼓のように打ちならした。 それでも彼女の部屋からはなんの反応も還ってこなかった。
むろん箱から出るだけなら、なんでもない。 なんでもないが、暗闇に放り出され箱ないだけのことである。 ただ、出来ることなら、誰かに手を貸してほしいと願うのだ〈別紙による三ページ半の挿入文〉(紙が違うだけではない。 はじめて万年筆が使用され、字体もあきらかに違って男いる。 しかし、いずれ誰かが、別のノートにまとめて清書するとすれば、紙も体も無暗に統一されてしまうはずだ。 そう神経質に考えることもないだろ箱――さてと、それから? ――喉が、からから……――そのコップ、ひびが入っているぞ。 ――平気。 ――それで? 男子生徒は、るる、と猫撫で声で言った。 —僕のこと、覚えてる? —誰? —ほら、去年、同じクラスだった……—ああ。 —久しぶりだね。 —そうね。 を山田のしからんか。 分からん。 何処で間違ったんだ。 ―いい、いい。 顔を洗うのは明日の朝でいいでしょう。 上村は―そんなもんじゃない。 とにかく。 ―大変だ。 ―同じことじゃない。 ―明日の朝では、山光堂の店を開けることはできない。
―昨日の今日のアクシデントじゃないの。 ―誰? ―しかも、もう一人。 ―じゃ、佐藤は? ―花と田代……。 ―うん、死んだ。 ―うそっ。 うそっ。 何かの間違いだ。 死体を間違うなんて。 そんなこと絶対にない。 俺の目は、俺の目は確かなんだ。 お前も見たろう。 あの女は、間違いなく……。 ―何? ―何が。 ―お前がさっきから言っている。 ―だから、何だい。 分からん……。 ―あの女。 ―さっき死んだ女だって。 そいつが、あのブラック・ジャックの女だ。 ―どうして。 ―何が。 ―だから、ブラック・ジャックの女が何故、山光堂にいたんだ。
―え、いま、何て。 ―これ以上は……。 ―ブラック・ジャックは、俺たちを狙っている。 その女が、―まだ、分からんのか。 ブラック・ジャックの女が、この部屋にいたんだ。 ―お前は、何を言っているんだ。 ―どこへ行く。 ―悪いけど、俺は帰る。 の素っ裸なんだ。 知らなかったじゃ、済まされないんじゃないかな。 ――分ったわ、これからは気をつけます。 ――最初からもう一度、順序どおりに繰返してみてごらん。 ――だから、服を脱いで、明りをつけて……――その前に、明りを消して、だろう? ――だから、明りを消して、服を脱いで、明りをつけて、それから注射をしてやりました。 男――それにしても珍しい話じゃないか、そのあいだ、一言も交さずとはね。 ――そういうわけじゃないけど……――困るな、勝手な省略は。 女――大したことは言わなかったはずよ……そうね、最初は、天気のことだったっけ……こんなふうに、わたしの髪に触ったりしながら……――手は使わせない約束だったはずだぞ。 ――だって、髪の毛だけよ。 ――同じことさ、何処だって。 ――でも、異和感を分かち合えたかもしれない……――かばうことはないだろう。 ――ちょうど、枕元のスタンドを点けようとして、かがみ込んだときだったわ。 ――スタンド? ――注文されたの。 ――何を? ――上からの光だけじゃ、よく見えない部分があるんだって。
――いい加減にしてくれよ。 そんなふうに付け上らせていたら、きりが無くなっちまうぞ。 男――そうね、気をつけるわ。 ――それで、あいつ、なんて言ったのさ? ――雨になりそうだって。 わたしの髪が、小さく縮んで見えるから……女――汗で湿っていただけさ。 ――うん、汗びっしょりだった。 ――しかし、待ってくれよ、その天気予報より前に、スタンドの明りを注文されたんだろう? ――そう、スタンドのほうが先。 のく声、ざらついた石を曳く(実際は舟をこいでいるのだが、水面は見え)気配をいっこうかき消し、かえって辺りを静けさで満たした。 いま目の前の、この川面が、たけき戦のあった合戦のさなかであったとは、にわかには信じがたい。 う。 三郎左にそう言った。 一、同治三年のこと。 幕府に弓をひこうとする者が関の守りをかいくぐり、京へ向おうと、木曽には女改の厳しさで知られる福島と、ここ木曽川を渡る関所があった。 さいわい木曽川の水かさは浅く、舟を使わずとも渡ることができた。 そのくせ関をさけることはできず、必ず渡らねばならなかった。 さいわいとは言っても、川の真ん中あたりまでは水かさがあり、女子供が渡るのはむずかしい。 さいわいというのは、川の真ん中あたりまで出ると、川向こうからは、うまい具合に川霧が立ちこめて、向こう岸の様子をうかがうことができなくなった。 霧たのだ。 気配のくつ音、ただそれだけが霧の中、闇に吸いこまれるように消え、あって、歩みを進める者は不安にかられた。 闇に、ただ闇に、闇が続く。 やがて、思いきって今度は、いっさいの音が絶え、しんとした静けさの中、音もなく何かが現れるのを待つ。 のだった。 そのうち、霧が晴れ、夜が明けた。
あたりは、やはり、もとの木曽川の川岸で、ただ川の流れだけが音を立てて流れるばかり。 闇に、川面に、そう思わせたものがあったのである。 そこは川岸から少し離れたところにあり、川面から三間ばかり高い崖の上であった。 崖の上には、大きな岩がいくつも重なりあって洞窟を形づくっていた。 その洞窟に身を隠していたのである。 今はもうない。 が、八十間、三十間ばかり下ったところに、その名残を思わせるような場所がある。 そこもまた、崖になっていて、そんな場所がある。 そこもまた大きな岩。 巨岩の連続。 断崖絶壁。 さすがに今は、昔、そこにも同じような洞窟があったという言い伝えがある。 その洞窟に身を隠していたのは、水戸天狗党の残党。 京へ向かおうとした一行は、のく声、闇に、この場所でことごとく討たれた、と聞く。 女改の厳しさで知られる福ては、五万円くらいの価値はありそうだ。 そのお礼の動機が、彼女の利己心によるものか、医者をかばう気持から出たものかによって、事情はかなり違ってくるが、すくなくも医者との間に意見の対立があったことだけは認めてもよさそうである。 だとすれば、まあ、悪くない発端だとも言えそうだが……男だからと言って、このままあっさり箱を片付けてしまう気にはなれない。 そこまで気を許すには、まだ材料が不足している。 せめてもういっぺん彼女の真意をただしてからにすべきだろう。 それくらいの権利はあるはずだ。 それに、はっきり言って、ぼくは不満である。 彼女が自分で出向いて来てくれたこと自体は、けっこうだが、あまり箱にも事務的すぎた。 堤防を降りて来ようともしなかったのだ。 雨の都合を差引いて原動機つきの自転車にまたがって(貨物船の照明を受けて、濡れたように光るレインコート……レインコートをとおして、くっきり透けて見える体の線……それが、ぼくを武装解除してしまった、あの膝やふくらはぎの動き……)さっさと「水遊び禁止」の立札を通過すると、あわてて送ったぼくの懐中電燈の合図も無視して、そのまま県道に出てしまったのだ。 やや間があって、二メートルばかり先の地面に、光の輪がふるえながら滑り込んできた。
橋の欄干ごしに照らした、彼女の懐中電燈の光だった。 さらに、説明して貰うわけにはいかない、箱男にとっては一番苦手な死角なのである。 つづいて物音……ふるえる光の輪から、わずかに外れた所に、何かが落ちてきた。 石を重しに入れた、ビニールの袋だった。 その袋の中に、同封の手紙と、まるめた一万円札が五枚収まっていたというわけだ。 そのまま彼女は引返していった。 つい目と鼻の先まで来ていながら、声も掛けずに行ってしまった。 ふくらはぎの動きが闇に消え、濡れたレインコートのきらめきも消え、最後に赤い自転車の尾燈が消えた。 手紙を読み、札を数えていると、急に聞えるはずのない霧笛の音がしはじめた。 頭の中を男流れる血管の音かもしれない。 箱五万円か……彼女にだけは教えておいてやりたいものだ……村方にとっては、微財かもしれないが、箱男にとっては取るに足らない金額なのである。 だいたい箱男について、無知すぎるよ。 箱男にとっての、箱の意味を、軽く考えすぎている。 彼がひなんか言っているわけじゃない。 ただの強がりだけで、三年ものあいだ箱生活を続けたり出来るものか。 甲殻類のヤドカリだって、いちど貝殻生活をはじめると、胴から後ろが殻に合わせて軟化してしまうので、無理に引出されると千切れて死んでしまうということだ。 ただ元の世界に引返すためだけに、箱を脱いだりするわけにはいかないのである。 箱を脱げるのは、昆虫が変態するように、それで別の世界に脱皮できる「ハコさんお元気ですかお手紙ありがとうございましたぼくは元気ですハコさんのまわりの人たちも元気そうでなによりですぼくはハコさんを応えんしていますがんばって下さいまた手紙書きます「ハ、ハ、--「おまえら、おれをだれだと思ってるんだ」「おれたちは、おまえがだれであろうと、ちっともこわくはないぜ」「ようし、それなら、目にもの見せてやる」「さあ、こい」「おれは、天下の大どろぼう、石川五右衛門だ」「なんだって、石川五右衛門だって」「そうだ。 さあ、かかってこい」るはる……。 今ではおだやかに微笑して聞く母だが、当時は、きっとつらかったはずだ。 ……近藤誠一。 「この人は誰だ」。 そう思った。 母は、いつもどおりの様子で、僕の前に座った。 そして、ゆっくりと話し始めた。
僕も聞いた。 聞いたが、あまり覚えていない。 僕の心に引っかかっていたのは、あの写真のことだった。 しかし、だんだん母は自分の過去について少しずつ話してくれるようになった。 ある時僕は、母が僕の知らないところで、たくさんの苦労をしてきたことを知った。 それは僕が生まれる前の話だ。 母は、若くして、ある人と一緒になった。 その人は、僕の父ではない。 母は、その人と一緒になり、僕の姉を産んだ。 そして、僕の姉が生まれて間もなく、その人は母と姉を置いてどこかへ行ってしまった。 母は、ひとりで姉を育てていかなければならなかった。 母は、僕には、決してその人のことは話さない。 母の口からその人の名前が出てきたことは、一度もない。 だから、僕の姉は、僕とは父親が違う。 もちろん、僕が生まれる前のことだから、僕には関係ないことではあるが、しかし、僕の母の過去について、知ることができた。 しかし、僕にとっては、あまりにも衝撃的なことで、母の過去を知れば知るほど、僕の心は母から離れていった。 僕は、母のことがわからなくなってしまった。 僕は、母に反発した。 わざと母を困らせるようなことをした。 母を悲しませるようなこともした。 母の悲しそうな顔を見るのが、僕にとって、うれしかった。 母の悲しそうな顔を見るたびに、僕は、母に勝ったような気がした。 しかし、母は、僕を叱らなかった。 僕がどんなに悪いことをしても、母は、僕を叱らなかった。 僕が、母を困らせようとすればするほど、母は、僕にやさしくなった。
僕は、母のやさしさが、つらかった。 僕は、母に叱られたかった。 僕は、母に言った。 「お母さん、僕のこと、叱ってよ……」。 母は、何も言わなかった。 ただ、僕の顔をじっと見ていた。 その時の母の顔は、今でも覚えている。 悲しそうな顔だった。 僕は、母のことがわからなくなった。 母の気持ちが、わからなくなってしまった。 僕は、母のことが、怖くなった。 僕は、母から逃げ出した。 僕は、母のいないところで、生きていこうと思った。 しかし、僕の心の中には、いつも母がいた。 母のことが、気になって仕方がなかった。 僕は、母のことが、好きだった。 男まったく、わけが分らない・・いや、分っている・・要するに、約束が約束どおりにたのだ。 そう、彼女は自分でやって来た。 彼女自身がやって来た。 彼女が自分で・・すべて医者の襲撃を前提にしたものだった。 ところが、やって来たのは彼女自身だっやってくるのは医者だと、ぼくは勝手に決め込んでいた。 いろいろと練った作戦も、だった。 三つに折ったその緑色の罫の便箋を嗅いでみた。 微かにクレゾールの臭いがしただけ別の読み方がありうるだろうか。 文字どおり解釈する以外、いまのぼくには不可能だ。
妙なことになってしまった。 何度も繰返して、彼女の手紙を読み返してみた。 何か箱男あなたを信頼します。 領収書はいりません。 箱の始末も一任します。 潮が引ききる前に、箱を引き裂いて、海に流してしまって下さい。 世田谷代官山お金持ちなの? と同じくらい不思議なことだった。 だから初めて聞いたとき、私はそれを「へえ、そうなんだ」と受け止めた。 によっては俎の代用にもなる。 風の強い冬の夜には、焚き火をふさぐ風戸になってくれたし、風のない夏の夜には、手頃な団扇がわりだった。 湿った地面に腰を下ろすときには、携帯ベンチだし、集めたタバコの吸殻をほぐして巻きなおすときには、ぴったりの作業台にもなってくれる。 もっともここまで所持品を単純化してしまうには、やはりそれなりの年月と修練が必要だった。 箱暮しをはじめた当初は、どうしても世間並みの便利さの観念から抜け男きれず、役に立ちそうな物はむろん、さっぱり用途の分からない物まで、やみくもに貯め込んだ時期がある。 金のリンゴを取り合っている三人の天女系ヌードを浮彫りにしたブリキ箱(かならず何かの役に立つ)、珍しい石(もしかしたら大昔の石器かも箱しれない)、パチンコの玉(重い物をころがす時に役に立つ)、コンサイス英和辞典(いつ必要にならないとも限らない)、金色に塗ったハイヒールの踵(面白い形だし、金槌の代用にも使えそうだ)、百二十五ボルト・六アンペアの家庭用コンセント(必要になったとき無ければ困る)、真鍮製のドアの取手(紐をつければ武器になる)、ハンダ鏝(きっと何かの役に立つ)、鍵が五つ付いているキー・ホルダー(このうちのどれかが合ってくれる錠前に、いずれ出くわさないとも限るまい)、直径四センチの凸レンズ(光を当てれば発火器になるし、フィルムを乾燥させるときの重しにも手頃である)……等々といった具合で、荷物は際限もなく増えていき、重さと嵩高さで身動き出来なくなってから、やっと切り捨ての必要を痛切に思い知らされたものである。 箱男に必要なのは、七つ道具を一つにまとめた七徳ナイフなのではなく、安全カミソリの刃一枚を、いくつもの目的に使い分ける工夫らしい。 最低、日に三度は使用するくらいの物でなければ、くよくよせずに整理してしまうべきなのだ。 男だが切り捨てにもおのずと限度がある。 貯めるのにも労力はあるが、捨てる労力はそれ以上だ。 なにか自分の持物につかまっていないと、風に吹き飛ばされそうで不安なのだ。 たとえば、小型ラジオ――音質もかなり満足できる、FM付きの携帯用ラジ箱オ――を愛用していた者が、単に荷物を軽くしたいという理由だけで、あっさりからくた扱いしたり出来るものかどうか。 ところがぼくには、それさえ出来たのだ。 そう、あのラジオの話だけは、ぜひとも彼女に聞かせておいてやろう。 必要ならば贋箱男にも聞かせてやりたい。 交信に先立って、どういう相手と交信しているのか、あの二人にはっきり認識させておきたいのだ。
ってしまうのだった。 が、さて、今日の夜店の「催し」は、無理をしなきゃならぬぐらいに、ゆきつく先々で、力を得てきている、ということができた。 OSの集まっている酒場の前を通ると、必ず、四囲をオーロラのように照らしているはずだった。 ミリョクに漲っている。 夜店の明かりに、清潔な茂みが照り返している。 三機の火矢が発射台をはなれ、天へ、天へ、オーロラのように曳いてゆく……舗道にくみあげられた大プールでは、少年たちが、薄いセロハンを透かしたような水の底に金魚の影を追っていた。 品川の年金手帳の表紙の紙魚ほどに黄ばんだ小屋掛の中では、網を投げ、すくいあげるたびに、金魚の群れは、赤い鱗をひるがえして逃げた。 夜店の匂い、汗と油とソースと埃の匂いが、むっと鼻をついた。 街路樹の葉は、風もないのに、ゆっくりと揺れているように見えた。 のです。 若いころはともかく、今ではとてもそんな気になれません。 いったいどうすればいいか。 きいた話ではアメリカでは、カウンセリングが発達していて、日本のように精神科の敷居が高くないから、YOUも気楽に相談にいけばいい、というのです。 米国にいるなら、その利点を生かさない手はない、と。 おせじにもあまり社交的に開けっぴろげとはいえない私に、そんなアドバイスをしてくれるのは、親切心からにちがいありません。 完全に〝ケース〟として扱われているな、という気がする。 〝こういうのがあるの〟とつぶやく声が聞こえてきそうです。 私の経験では、こういう親切なアドバイスをしてくれる人は、たいてい自分の経験からものをいっている。 と、地下鉄の駅ではなれました。 近い以前のある時期に――ったな……。 ぼくのすぐ前を、ごく普通に歩いていた三十代くらいの男の人が、突然、線路に身を投げたんです。 電車が入ってくる直前でした。 ぼくは、その人のすぐうしろを歩いていたんです。 その人の背中が、ふっと消えたように見えた。 次の瞬間、電車が急ブレーキをかけて、ものすごい音がして、あたりに人の叫び声がひびいた。
ぼくは、その人が線路に飛びこむところを、はっきりと見たわけではないんです。 でも、その人がいなくなったことは、はっきりとわかりました。 と言っても、別に特別な感情はわきません。 もうずいぶん前に、こういう経験をした友人が――いつもは自分のデスクで仕事をしているはずの、けっこう仲のいい友人がどうして、リノリウム張りの廊下で、大の字になって横たわっているのか、YOUには想像もつかないだろう、と言ったことがある。 彼はその友人が死んだときのことを、そんなふうに話した。 ぼくも、そのときの気持は、そんな感じでした。 と、ぼくは答えたのですが、たしかに一種の奇妙な感じは、強く残っている。 それから、夜、寝床でふと、自殺したその男のことが、頭に浮かんでくることがある。 自殺した男の、その日のことだけでなく、その男がふだん、どんな人間だったのか、どんな生活をしていたのか、どんなことを考えていたのか、そんなことが、ふと頭に浮かんでくるのです。 あまりに唐突に消えるように死んでしまったので、かえって、その男の生前のことが、気にかかってしまうのです。 (少なくとも自殺した男の姿が目に残ってしまって、なかなか消えない、というようなことはありません)。 しかし死んだ友人のことでは、〝ケース〟がちがう。 そういうことでは、人間関係がからんでいた。 彼は、自殺する前日の午前中、十八日の朝、ぼくのところへやってきて、YOUに頼んでおいた原稿はまだできないか、と訊ねた。 ぼくは、その前夜も徹夜をしたので、すっかり寝すごしてしまい、まだできていなかった。 次の朝必ず渡すから、と約束した。 それが、彼と会った最後だった。 今でも〝ケース〟を思い出すたびに、後悔が、あとからあとから湧いてくる。 と、そう思ったのですが、〝ケース〟に対する気持も、かなり揺れていました。 たりする。 笑いごとじゃないよ、当人にとっちゃ深刻な話さ。 ニュースを読んだり聞いたりするだけで、一日の大半がつぶれてしまうんだからな。 自分で自分の意志の弱さに腹を立てながら、それでも泣く泣くラジオやテレビから離れられない。 もちろん、いくら漁りまわったところで、べつに事実に近付いたわけじゃないくらいの事も承知していた。 承知していながら、やめられないんだ。
ぼくに必要なのは、事実でも体験でもなく、きまり文句に要約されたニュースという形式だったのかもしれない。 つまり男完全なニュース中毒にかかっていたわけさ。 ところが或る日、とつぜん恢復した。 ほんの些細な、自分でも首を傾げたくなるほど些細な事件が解毒剤になってくれたんだ。 あれは、どこだったっけ……たしか銀行鞄と地下鉄の駅にはさまれた、広い歩道のある街角で……日中にしては人通りが少なかったな……ぼくのすぐ前を、ごく普通に歩いていた一見サラリーマン風の中年男が、急に膝の力を抜いて、腰を落したかと思うと、ごろりと横になって動かなくなってしまったんだ。 子供を相手の、熊ちゃんごっこと言った感じだったな。 通りかかった学生風の男が、倒れた中年男をからかうように覗き込んで、「死んでるじゃないか」と、気まずそうにぼくを見上げて薄笑いを浮べてたっけ。 相手にならずにいると、それでもしぶしぶ、二、三軒先のタバコ屋に電話を借りに行ってくれたよ。 ぼくも面倒——と言っても、新装開店の贈呈見本を、せいぜい月に一、二度まわしてもらえればいいという程度だったが——いったんはカメラを構えて、いろんな角度から狙ってみたりした。 けっきょく思いなおして、シャッターを切らずにしまったのは、べつに死者を怖がって遠慮したせいじゃない。 絶対にニュースにならないことが、すぐに分ったからさ。 でも、死ぬってのは、たしかに一種の変化だな。 第一、皮膚の色がさっと青みがか男ってくる。 それから、鼻が薄くなり、顎がしなびて小さくなる。 半開きの口は、ナイフを入れた蜜柑の皮の切口みたいで、その間から歯茎の赤い人肉がはみ出しかけているのさ。 おまけに着ている服まで変るんだ。 かなり上等に見えていたのが、見る間に鞄へなへなと見掛け倒しの安物に変ってしまったよ。 もちろんそんな事だってニュースじゃない。 しかし死んだ当人にとっては、ニュースになろうと、なるまいと、ぜんぜん関係ないみたいだったな。 仮に、指名手配中の兇悪犯の手にかかった、十八日の犠牲者だったとしても、べつに違った死に方が出来るわけじゃないだろう。 自分も変化したけど、外の世界も変化しちゃって、もうこれ以上変化のしようがないんだ。 どんな大ニュースも追いつけないほどの、大変化さ。 と、そう思ったとたんに、ニュースに対する感じ方が、がらりと変ってしまっていた。 どう言ったらいいか……「あなたもニュースをやめられる」ってわけにはいかないよ……でも、分るだろう、なんとなく……なぜ誰もが、こうニュースを求めるのか……世間の変化を、あらかじめ予知しておいて、いざという時のため備えるんだって? 以前はぼくもそう思っていた。
でも大嘘さ。 人はただ安心するためにニュースを聞いているだけなんだ。 どんな大ニュースを聞かされたところで、聞いている人間はまだちゃんと生きているわけだからな。 本当の大ニュースは、世界の終りを告げる、男最後のニュースだろう。 もちろんそいつが聞けたら本望だよ。 ひとのばっちりで世界を手離さなくてもすむんだからな。 考えてみれば、ぼくが中箱にかかったのも、結局のところその最後の放送を聞きのがすまいとする焦りだったような気がする。 しかし、贋ニュースが続いているかぎり、絶対に最後にはならないんだ。 未発表ではありません、というお知らせなのさ。 ただ後に続ける、ちょっとした決り文句が省略されているだけのことでね。 昨夜B52による本年度最大の北爆が行われました、でもあなたはまだなんとか生きています。 ガス工事中引火して八人重軽傷、でもあなたは無事に生きています。 物価上昇率記録更新、でもあなたは生きつづけています。 工場廃液で湾内の魚介類全滅、でもあなたはなんとか生きのびています。 ――ところで、なんの話だったっけ。 「要するに、あなたが、ニュースに聞き飽いたって事……」と、彼女は脚を組みかえ(ちゃんとぼくの関心のありかを心得ているらしい)新しくくわえたタバコに火をつける。 わきから贋箱男がくぐもった声で付け足した。 「どうもよく分らない、そんな自己紹介が、なんの得になるのかな……」男――ニュースを聞かない人間に、悪人はいないってことさ。 唐突に医者の言葉をはね返し、彼女の方には微笑をくずさずに、ニュースを聞かないということは、つまり、変化を信じないということだろう、ぼくもむやりにここに変化を持込んだりするつもりは無いということさ。 贋「それにしても、筋違いじゃないのかい? 」思いがけずきっぱりとした調子で贋箱男が口をはさんだ。 「筋違い? 」「その五万円のことだよ。 君が箱男と親しくしているという触れ込みを信じて、買い取ってもらうためにあずけた金だ。 受取るとか、受取らないとか、筋違いもいいとこじゃないか。
」「言いがかりはよせよ……」思わず大声になりながら、「ぼくが暗殺の同一人物だってことくらい、お前ご承知のはずじゃないか。 」「知らないわ。 」「白を切ったって無駄さ。 ちゃんと証拠もあることだ。 」気持を静めるために、ゆっくり息を吸い込み、息を吐く。 「一週間前のあの晩、ぼくが連中の手先を受けに来たとき、すでに息絶えていたはずなんだ。 田中尉のそっくりさんを第一番目の標的に残して、毛の多い不精ひげ……つんと右端の鋭いかすりきずだ。 泥棒のように窓の鍵をこじ開けつづける、首や肩……」「でも、写真家なんて、変り者が多いっていうじゃない」ペースの飛躍を指摘するような軽い調子。 けっきょく彼女も医者とぐるになって、ぼくを利用しようとしたのだろうか。 「しかしあの時、君だって認めたじゃないか、肩の傷口に刺さっていたのが、空気銃の弾だって……」「この辺に、空気銃を持った人は多いのよ。 鳩小屋で、イタチの被害がひどいらしいの。 」「ぼくが車をたてたとき、偶然、通りかかった警官が居合せて、ここの場所を教えてくれた。 おまけに、治療費までだしてくれたんだ。 ちょっぴりアルコールの臭いがするだけで、三千円……」じっと彼女の眼の奥を覗き込む。 彼女がそう簡単に寝返ってしまうとは思えない。 あんなにはっきり、ぼくのモデルをする約束までしてくれたじゃないか。 彼女はモデルになって、画家の視線を感じる時、最高の恍惚状態になるのだそうだ。 そんな挑発までしておいて、それとも、そう……いまは医者の手前をとりつくろっているだけなのかもしれない。 たしかにここで医者につむじを曲げられるのは、あまり望ましい事ではなさそうだ。 深追いしすぎて、彼女の立場を悪くするのも考えものである。 「……誰か、新式の自転車に乗ったミニスカートの娘さんで……たぶん、娘さんだろうな……あいにく後ろ姿しか見えなかったけど、めっぽう脚の形がきれいなのさ。 一度見たら、絶対忘れられない脚だった。 長年街暮しを続けていると、しぜん通行人も下半身だけを眺めがちなので、それだけ脚を見る眼も肥えてくるんじゃないかな。 」こもった微笑で、わずかに彼女の頬がふくらんだような気がした。 しかし現実に笑い声をたてたのは眼鏡の男の方だった。
「たしかに、兜ってやつは、見るとかぶるとでは、大違いだね。 」「断わっておくけど、まだ完全に所有権を手放したってわけじゃないんだ。 」しかし、そのまま放っておいても、いつまでたってもキリがない。 ここは一発、景気づけに威嚇射撃でもしてやるか。 そうだ、それがいい。 そうと決まれば話が早い。 ハコちゃんは、おじいちゃんのお話をききながら、また涙が出てきました。 そして、こんなことをいいました。 「だって、事実、出て行くつもりなんか無いんだろう……」「ちょっとした妥協案なら、用意してあるんだ。 」からだを、座ったままの捩り、ますます低くこびるような調子で豊島がつづけた。 「たとえば、こんなふうにしてみたらどうだろう。 君にはこの家のなかで、自由にふるまってもらうことにする。 彼女とどんな関係になろうと、ぼくは一切干渉しない。 邪魔をしたり、口出ししたり、目障りになるようなことは一切しない。 ただ、一つだけ、条件を飲んでほしいんだ。 ぼくにも覗く自由は与えてほしい。 ただ覗くだけだよ。 むろん君はかぶったま男まだ。 ちょうど今、ぼくら三人が置かれている、この関係だね。 ぼくはこんなふうに、隅っこの方から、こっそり覗かせてもらっているだけでいい。 馴れてしまえば、邪魔だって、似たようなものだろう。 」なんだか、自分がするはずだった提案を、かわりに豊島に代弁してもらったような気がした。 そっと様子を窺うと、彼女はしきりと両手の指を動かして、糸のない綾取箱りに熱中しはじめていた。 ゆっくり脚を組み替えた。 ナイロンのきいた白衣の裾が割れ、唾をつけた指で探ってみたくなるような膝がのぞいた。
もしかすると白衣の下は裸なのかもしれない。 仕掛けがあるとも知らず飲み込んだゴム風船が、とつぜん胃の中でふくれだすのを覚え、それにしても、いまこの豊島の前で、彼女に裸になってくれと頼む勇気がはたしてぼくにあるだろうか。 「迷うことはないさ。 」うながすように豊島が続け、「罰則なんて、気にしなければ、風やほこりみたいなものだよ。 ぼく自身、そのことについちゃ、面白い経験があるんだ。 何気なく撮った写真を、現像に出してみたら、画面の手前に、まったく予期しなかったものが、大写しになっていたのさ。 ダンボールの箱をかぶった人間が、のこのこ通りを歩いているんだよ。 君のように玄人じゃないから、子供だましのカメラだけ男どね。 あれは何を撮るつもりだったっけ。 かなり前のことだが、たぶんどこかの葬式風景だと思う。 自分が手掛けた患者の葬式は、なるべく記念に撮っておくことにしているんだ。 それにしても驚いたね。 あれほど近くに写っているからには、目撃しなかったはずがない。 だのにさっぱり記憶がない。 見えてもいないのに、見えたような気箱がするのが幽霊なら、ちょうど正反対の存在だな。 それ以来のことだよ、ぼくが罰則に興味を持ちはじめたのは。 そのつもりになって、気をつけていると、なるほど写真のとおりの風体をしたのがちゃんと街をうろついている。 しかも、何度か観察しているうちに、誰もがまるで注意を払おうとしないことに気付いたのさ。 ぼくだけの目溢しじゃなかった。 たとえば箱男が、八百屋の店先に立寄ったとする。 こう、穴から手をのばして、その辺の商品を次から次にかっぱらいはじめるんだ。 もっとも、トマト喧嘩したら泣きじゃなくて、ぶん殴ってやりゃいいんだよ、どうしてもそうやってしまうんだ、というような口調だった。 「十一月三日【木曜】学校から帰ると、家の鍵がなかった。 家族の者はそれぞれに出かけてしまって、だれもいない。 仕方なく、玄関の前に坐って待っていた。
寒かった。 夕方になって母が帰ってきた。 怒られるかと思ったら、母は笑っていた。 僕は、その笑い方を見て、泣きそうになった。 鍵を忘れたことよりも、待っていた時間のことを、だれにも説明できないと思った。 」実はこういうことのほうが多いはずだ。 例えば、一見、親友としか言いようがない、お互いのことをよく知る間柄の二人がいる。 片方の男が彼女と付き合っているが、予期せぬことでやむをえず、二、三日、彼女を自分の親友のところに預けることになった。 ほんの三日くらいだから安心だ。 問題の彼女はといえば、それなりに可愛い顔立ちをし……しかし、けっして驚くほどの美人でもない。 ごくありふれた話だ。 日本じゅうありふれてしまっている話だろう。 (ずっと前に川上弘美が短編、あれは小学生の女の子の話だが、ほとんど同じ筋書だったと思うが、なぜか細かい筋は忘れたが、小学生を主人公に据えてまでして書きたかったのである。 「トシノ」という名の男の子だが、それをどうしてか同級生の女の子にしか見えない同級生がいる。 ところがいる場所はどこでもなくて、男の子の家の、お祖父さんの部屋だ。 おじいちゃんは川上弘美くらいの女の子をかわいがって部屋に入れている。 男の子は当然のこと同級生が気になるので、しばしば部屋をのぞき、時々はお菓子などを持って、話しかけもするが、相手は何も言わない。 ついに彼女は去るが、その後、彼女はどんな子かを探しだすのだが、まるで似ていない。 つまり彼女は同級生でもなんでもない、おじいちゃんの部屋にしかいない女の子だったのだ)おじいちゃんの部屋にしかいない女の子、と言いかえても、おじいちゃんが女の子を部屋に隠すわけにはいかないから、男の子の目にはそう見えた、というだけの話だろう。 男の子はなぜ、彼女を川上弘美だと思ったのか? )ぼくは自分の願望をふくめて語っている。 自分なりに他人の話に脚色をつけ加えている。 あつかましくはあるが、もっとも、悪いのはぼくのほうばかりではなく、人間のほうがーチャン上手で川上弘美がいるのだ。 人間は男を試すために、人間を利用したのではなく、男の願望を自覚して人間を預託しようとしたのだが、男が預託してしまったのだから、自信じこんでいる(非常に似ていることは、川上弘美のほうも、かねがね気づいている)。 それから人々が、なんとか他人の間柄に割りこもうとねらうのは、人間の側の不注意さで、親友に期待するからなのだ。
なるべく似たような容姿をえらび、似たような雰囲気にして、他人と自分がもっとも親しくなれるように工夫したりする。 こっちの期待を裏切らないかぎり、向こうも信頼してくれるだろうから、お互いが友人同士になってしまう。 だから男は「隠したもの」などという問題もあるのだが、あまり問題にならないのだ。 文明社会では殺されてしまっている現実だ。 「響き」というのだが、一番に響きの届きやすいと思われるのは、自分が最も心を動かされる人たちなのだろう。 そのうち最も響きせる場合には、それに見合った代償を要求するのが常識だ。 現に、芝居や映画でも、ふつう見る方が金を払い、見られる方が金を受取ることになっている。 誰だって、見られるよりは、見たいのだ。 ラジオやテレビなどという覗き道具が、際限もなく売れつづけているのも、人類の九十九パーセントが、自分の覗きを自覚していることのいい証拠だろう。 ぼくが、すすんで近視眼になり、ストリップ小屋に通いつめ、写真家に弟子入りし……そして、そこから前男までは、ごく自然な一歩にすぎなかった。 男(再び赤インクによる欄外の註――露出症の存在は、視姦者を人間の普遍的傾向だとみなす筆者の主張と、かならずしも矛盾するものではない。 露出症はしばしば、正常な性行為では満足しえない過剰性欲と誤解されがちであるが、実際にはむしろ抑制されすぎた性表現である場合が多いのだ。 たとえば、患者は次のように告白している。 露出行為が効果をあげる第一条件は、見せようと思う相手が未知の異性であること。 第二には、相手と一定の距離が保たれ、接近によって見る、見られるという関係が破棄されないこと。 第三には、相互に顔を識別しえないこと。 以上の三条件を満たす具体的な場所として、患者は木立の多い夕暮の公園などをあげていた。 こうした傾向は、患者が異性一般に対しては強い関心を箱抱きながら、実在する個々の異性に対しては、病的な恐怖心を抱いていることを示すものだ。 筆者の論法を借りれば、覗きの自覚である。 また患者は次のようにも言っている。 露出行為によって、オルガスムに達するためには、相手が自分の性器を覗くことによって、性的な刺戟を受けていると想像することだ。 相手にあからさまな嫌悪を示されるのも困惑だが、好奇心をむき出しにされるのも腹立たしい。 見て見ぬふりをされるのが、なによりのはげましになる。 これは明らかに相手が視姦者として、自分の露出行為に加担してくれることへの期待だろう。 男露出症は、鏡に映した視姦行為にほかならない。
)「君も煮え切らない男だな。 」声帯を固め固い声で、贋前男が早口に言った。 「こん箱なうまい話に……どうかしているよ……ぼくなら、一も二もなく、飛びついてしまうがね。 」「あんたが、目障りだからさ。 」「なるほど……」「前男のことについちゃ、自分で経験して来たことだから、あんたよりは詳しいつもりだよ。 世間が前男を黙殺するのは、なかみが誰だか分からないからなのさ。 でもあんたの正体は、はっきりしている。 覗いている目つきだって分るくらいだよ。 ぼくは嫌だな。 じろじろ見詰められるのは、きらいなんだ。 」「だから五万円も払ったんじゃないか。 」「覗くことには馴れっこだけど、覗かれることには、まだ馴れていないんだ……」魔術男が、ゆらりと揺れた。 いちど大きく斜め前に傾いてから、思い掛けない身軽さで立上った。 箱の骨が擦れ合って、乾いたダンボール特有の空っぽい音をたてた。 けっきょく魔物は魔物なのさ。 しっとり使い込まれた本物の箱とは較べようもない。 「おしゃべりは、これくらいにしておこうや。 」魔術男が、足をふんばり、場違いに陽気な声を張上げた。 脛毛が目立つ、白い筋張った素足。 ズボンははいていないのだろうか。 「自分じゃ食欲がないつもりでも、口に入れてみたら、けっこう食えるってこともあるからね。 」それから、彼女の名前を呼んで、「君、裸になって見せてあげたら? 」ぼくは狼狽した。 いきなり裸の注文が出されたという以上に、彼女が固有名詞で呼ばれたことに、困惑を感じたのかもしれない。 いまここに彼女の名前を置くことさえ、ためらわれるほどだ。
彼女がぼくにとって、いかにかけがえのない存在であるかを、あらためて痛感させられた。 偶然にせよ、やっとめぐり会えたただ一人の異性であり、他に比較の対象がないのだから、性を区別できる代名詞があるだけでじゅうぶんだったのだ。 「いま、すぐに? 」問い返す彼女の声に、不服の調子はとくにない。 怪訝な様子さえ見られない。 クリームを塗った手のひらで、卵の肌をなでるような感じ。 この調子だと、本当に裸になってしまいかねない。 ぼくは狼狽しながら、しかも口をつぐんだままだった。 唇がしびれて、何も言い出せなかったのだ。 「かまわないだろう。 」「かまわないけど……」短い事務的なやりとり。 「その辺に、マッチがなかったっけ? 」魔術男にうながされ、彼女がぼくの前を斜めにすり抜けるようにして、部屋を横切った。 まったくエネルギーの浪費を感じさせない、小型精密機械の足取り。 白衣のポケットから、マッチ箱を取出し、顔の覗き窓に指先ではじくようにして差し込んだ。 ふと彼女のにおいがした。 海岸で嗅いだ、造花草から吹いてくる風に似ている。 心臓の皮が波立った。 魔術師に対する嫉妬だろうか。 身をひるがえし、もとの位置に戻ると、すぐに彼女は白衣のボタンを外しはじめた。 三つめのボタンで瞬くぼくを見た。 いかにも軽い――そのまま半日でも宙に浮んでいられそうな――視線なので、ぼくは眼をそらすどころか、またたきもせずにすんだ(ここが重大なのだ、彼女からだと、いくら見られていても、ほとんど見られた気がしない)。 彼女の失明のランプに、灯が入った。 かすかに唇がひらき、噛んで濡らした下唇が、歯の間からこぼれる。 開き男切った表情。
ぼくのために開けられた扉だろうか。 続いて三つめのボタン。 それから四つめのボタン。 彼女が、もし、本気でぼくを知りつくそうとしてくれるなら――昨夜、魔術師に見せたような姿勢で、ぼくを受け止めてくれるつもりなら――たしかにもう箱なんか無くてもいい。 隠す術を持たない人間には、他人の箱だって見えないはずだろう。 箱男が専門の覗き魔なら、彼女は天性の覗かれ魔なのである(ただ一つ気掛りなのは、そんな彼女と鼻を突き合せていた医者が、なんだって箱に頼るような心境にさせられたのかと言う点だ)。 そしてついに、最後のボタン。 さいわい、白衣の下がいきなり裸というわけではなく、ぼくはようやく落着きを取戻す。 肌にまつわり付いているオレンジ色の絹のブラウス。 苺の実のように並んだ小さな同色のボタンの列。 臍を直径二センチはありそうな黒のボタン三つで止めた、黄土色の短いスカート。 鞄の中でマッチをする音がした。 彼女は目のほうへと沈み込んでいたが、スカートの色との対比では、むしろ泥臭い方かもしれない。 しかしそのスカートのボタンに掛けた指は、たしかに白い。 どっちが本当なのか、現に見ていながら分らなくなってしまう。 一度スカートに掛かった指が、ためらい、思いなおして、ブラウスの苺の実のほうに移動した。 そう、当然そっちから始めるべきだよ。 ぼくにだって、もっと時間をかせがせてほしい。 タバコの臭いがしはじめた。 たとえ注射器男出会った彼女――赤ん坊のように疑いを知らず、強力な浄化装置のようにあらゆる負い目を拭い去ってくれる彼女――だけになら、まだ何処かで巡り会える可能性もあるだろう。 昨夜覗いた彼女――めくら女のように、他人の輝きに寛大で、アルコー女ルか麻薬のように劣等感を忘れさせてくれる、救済解放装置のような彼女――にも、いずれは出会う機会がありそうだ。 だが、その二つが一緒になった人格となると、現に実在していてさえ、おいそれとは信じにくい。 もっとも、彼女について、まだ批評がましい意見を並べられるほど知っているわけでもない。 しかし、右眼にとって、左眼についての知識が、なんの役に立つだろう。 肝心なのは、とくに意識しなくても一つのものを注目することが出来、ごく自然に関心を共有し合える信頼なのである。
苺の実のボタンの三つめが外された。 ブラウスの下は裸らしい。 タバコの臭いはしていししててももお。 ももいののかかねななあででももおもしろいことになりそうだからなな隙間を、お喋りのパテで埋めにかかる。 「ぼくもどっちかと言えば、その選択のほうに賛成さ。 彼女に気をそらされないなんて、きれい事はよそう。 写真くらい、何時だって撮れるし、肝心のところでお預けくったようなものじゃないか。 ぼくに気兼ねなら、ご心配なく。 とうに権利は放棄してしまっているんだ。 あれはもう、かれこれ一年になるかな。 彼女が子供を託しに来たのが、そもそもの馴れ初めでね。 手前が死んでしまってから、やたら金がないので、働いて返させてくれだとさ。 その無邪気な男顔で……驚いたよ……それにしても、ああいう時の判断は、まったく素早いものだね。 ぼくは相手の男の名前も、彼女の身寄りのことも、当然のように聞かずじまいだった。 彼女の過去を無視することで、引き留めにかかっていたんだな。 」女「聞かれれば、答えていたと思うわ。 」「べつに意識して聞かなかったわけじゃない。 」「でも、聞かれなくて、うれしかった。 」「それまでいた看護婦は、いい顔はしなかったな。 よほどすれっからしの、あばずれに違いないって言うのさ。 」「本当は、どうだった? 」「最初は、ひどい人間不信なんだろうと思っていた。 次に、人間通なのかもしれないと思った。 君はなんでも義務的にやってしまうんだ。 それに、咎められると、同じくらい簡単にあやまってしまう。
あやまりさえすれば、どんな罪でも帳消しになると、信じ込んでいるらしいんだな。 」「そんなに迷惑をかけた? 」彼女の指が、最後のボタンにかかる。 男「いや、取消しさ。 ぼくが最初に、君の過去を聞こうとしなかったのも、今から思えば馬鹿にならない直観だった。 君なら、降りたての雪の上を歩いたって、足跡を残さずに逃げ切れるよ。 」彼女は小さくまるめた唇の先で、短く笑い、ボタンを外し終えたブラウスの裾をスカートから引出すと、脱ぐ動作をそのまま指先にすべらせて、つまんだブラウスを診女察ベッドの隅に投げ掛けた。 よじった腰のくびれめに、数本の細い皺がよった。 とくに痩せて見えるわけでもないのに、皮下脂肪の層は薄そうだ。 何かを連想させる、なんだろう。 そうだ、レンズを拭くためのあの小羊の揉み皮の感触だ。 「でも、私たち、わりと上手くやれたんじゃない? 」「やれすぎたよ。 」露骨に鼻にかかった声で、「しかし、いい女ものさ、ぼくは自分に、彼女を引き留めるだけの力があったせいだと勝手に決め込んで……嫌になるな、感傷気取りで、毎晩二回もひげを剃ったりしてさ……おまけに、最後に「箱男」とは段ボール箱を頭からすっぽりかぶって、都市をさまよう男のことである。 箱男は、のぞき窓から世界をのぞき、すべてを記録する。 彼は、いったい何を見、何をしようとしているのか? 都市をさまよう現代の預言者か? あるいは、世界を根底から覆す革命家か? 謎が謎を呼ぶ、スリリングな展開。 現代文学の傑作、ついに登場あきらかに気持ちが悪そうだぜついてくるなよ気持ち悪いだから気持ち悪いんだよ気持ち悪いんだよお前箱唇を舌で湿し、だが扇風機もクーラーもつけるわけにはいかない。 どんな足音も聞きのがさぬ気だ。 うっとうしい天気だ。 額の生えぎわから流れる汗を、アルコール綿でおさえ、ねばるに腰を据えてから、もう四時間以上も経ったのだ。 九月もそろそろ終りだというのに、だけで、止めにする。 すっかり気が抜けてしまって、飲めたものではない。
君がここ君は飲みさしのビールのコップを、口に当ててみる。 ちょっぴり舌の先を濡らしたなっているようなのだ)。 ぬ代償を払わされることになるのかもしれない(と、いま君はひどく教訓的な心境に並も悪く痩せさらばえている。 あまり異例すぎる能力を身に付けると、かわりに思わどもを、ほとんど一手に独占できるのだから、栄養はじゅうぶんのはずなのだが、毛に珍しいものなのだろうか、さほどでもないのだろうか。 安心して這い出して来た虫毎、その辺をうろつきまわっては、餌をあさっている。 夜行性の鶏というのは、非常男ぶんまたあの鶏らしい。 いつからか夜歩きをおぼえた、薄気味の悪いめんどりだ。 夜れる気になったのだろうか。 いや、足音にしては刻みが細かすぎる。 犬でもない。 た男そっくりに似せてつくったダンボールの移動住宅。 やっと本物の箱男が出向いてくほらその音だ・・方角ちがいだった・・窓側を振向く。 壁ぎわにベッド、その上に箱がした、あの物音は、すると何だったのだろう。 気の迷いだろうか。 いや、聞えた、アの向うを透かし見るようにしながら、思いをめぐらすのだ。 いま自分の注意をうな塗り重ねたペンキも、表面の傷みを隠しきれない、時代がかった白いドア。 そのド配も感じられない。 やでも影を、その線の上に刻まざるを得まい。 君は待つ。 七秒か、八秒……なんの気走っている。 ドアの下からもれる、廊下の明りなのだ。 もし誰かが通りかかれば、いだ。 そのままの姿勢で、首を斜め右にまわすと、机の右端をかすめて、細い光の線が箱屋。 ちょうど今、君は書きかけのから顔を上げて、深く息をついたところたとえば、そこはおそらく、仕事机のスタンドだけを残して明りを消した、暗い部いま、君は書いている。 箱唇を舌で湿し、だが扇風機もクーラーもつけるわけにはいかない。
どんな足音も聞きのがさぬ気だ。 うっとうしい天気だ。 額の生えぎわから流れる汗を、アルコール綿でおさえ、ねばるに腰を据えてから、もう四時間以上も経ったのだ。 九月もそろそろ終りだというのに、だけで、止めにする。 すっかり気が抜けてしまって、飲めたものではない。 君がここ君は飲みさしのビールのコップを、口に当ててみる。 ちょっぴり舌の先を濡らしたなっているようなのだ)。 ぬ代償を払わされることになるのかもしれない(と、いま君はひどく教訓的な心境に並も悪く痩せさらばえている。 あまり異例すぎる能力を身に付けると、かわりに思わどもを、ほとんど一手に独占できるのだから、栄養はじゅうぶんのはずなのだが、毛に珍しいものなのだろうか、さほどでもないのだろうか。 安心して這い出して来た虫毎、その辺をうろつきまわっては、餌をあさっている。 夜行性の鶏というのは、非常男ぶんまたあの鶏らしい。 いつからか夜歩きをおぼえた、薄気味の悪いめんどりだ。 夜れる気になったのだろうか。 いや、足音にしては刻みが細かすぎる。 犬でもない。 た男そっくりに似せてつくったダンボールの移動住宅。 やっと本物の箱男が出向いてくほらその音だ・・方角ちがいだった・・窓側を振向く。 壁ぎわにベッド、その上に箱がした、あの物音は、すると何だったのだろう。 気の迷いだろうか。 いや、聞えた、アの向うを透かし見るようにしながら、思いをめぐらすのだ。 いま自分の注意をうな塗り重ねたペンキも、表面の傷みを隠しきれない、時代がかった白いドア。 そのド配も感じられない。 やでも影を、その線の上に刻まざるを得まい。 君は待つ。 七秒か、八秒……なんの気走っている。
ドアの下からもれる、廊下の明りなのだ。 もし誰かが通りかかれば、いだ。 そのままの姿勢で、首を斜め右にまわすと、机の右端をかすめて、細い光の線が箱屋。 ちょうど今、君は書きかけのから顔を上げて、深く息をついたところたとえば、そこはおそらく、仕事机のスタンドだけを残して明りを消した、暗い部いま、君は書いている。 そんなわけで、一月ほど経ったある日、俺は提督さんから呼び出しを受けた。 「例の件、覚えてるかな」「はあ、まあ……」「例の件」で通じるあたり、俺も提督さんも、よほど印象深い出来事だったのだろう。 「実は、また新しい子を保護したんだ」「……はあ」「それでだね」提督さんは勿体ぶるように言葉を区切ると、ずいっと身を乗り出した。 「今度は、君にその子のお世話係を頼みたい」「そうか、あんたの正体が、やっと分かってきたよ。 ただの幻覚じゃないかとも、どうも口きき方が横着すぎると思っていたんだ。 空想じゃないからと言って、べつに格が上たわけじゃないがね。 あんたたちを含めて、その段ボール自体が、ぼくの頭の産物だったのさ。 ただの妄想だよ。 あんたの頭からじゃ、想像もつかないだろうが、そこが本物と贋物の違いでね。 いま現にぼくがこうして眺めまわしている、空調一式かぎりの男密室……誰にも覗けないのだから、孤島のもようもない、頭の裏側……三角頭の汗と溜息で綴じられたダンボールの内壁いっぱいに、ぎっしり書き込まれた落書き……これがぼくの履歴書なのさ……食料集めのための、街の略図もあれば、このノートのための覚書きもある……その他、自分にもよく意味の分らない、図形や数字……女体たち前のは、なんでもここに揃っているんだ。 」「いま、何時になる、君の時計で? 」「五時に……八分前……」「君がそこで書きはじめたのが、たしか、三時十八分だったね。 気味の悪い時計だな。 あれからまだ、一時間と三十四分しか経っていない計算になる。 」「ぼくの落書きにすぎないってこと、忘れないようにした方が身のためだよ。 ぼくが前に未練がましすぎるだろって? 忠告どおりに、箱を始末したとたん、あんたも茶番もうとも消えちゃうもんだ。 」「君も相当な楽天家なんだな。 」「あんたのおかげで、今じゃ自己嫌悪のほうも相当なものさ。 」「いいかい、ノートのページ数でいうと、五十九ページ分なんだ。 一時間三十四分のあいだに、五十九ページ……どう考えてみたって、不可能だろう……だから何枚も破男台したじゃないか、喋りすぎだって。
これまでの経験を思い出してみてもいいな。 一時間に平均、何枚くらい書けたっけ? 平均すると、一枚にもなっていない。 最高に書いたときでも、四ページ埋めるのがやっとだった。 それも、ひどいなぐり書きでね。 」前「もっと書けた時だってあるさ。 」「まあ、妥協して、一時間に五ページということで計算してみるか。 五十九ページを、五で割ると、十一が立って、余りが四……十一時間と五十分か……そもそもこのページも終りだから、切上げて十二時間にしてもいいだろう。 それも、休まず食わずで、書きづめに書いて、やっと十二時間なんだ。 書きはじめたのが、午後三時なら、今が午後の三時より前なんてことは、絶対にありえないことになる。 」「断わっておくが、これはぼくのノートなんだ。 どんな書き方をしようと、ぼくの勝はい、箱男さんこちらこそ、よろしくお願いします。 ところで、一つお訊きしたいことがあるのですが構いませんか? 何でしょう? あなたの書かれた小説の中でどうしても気になる箇所があるのです。 ほう。 どの部分です? 最後の部分です。 つまり、結末のことですが。 ああ、あの結末ね。 はい。 あれは、どういう意味なのでしょう? どういう意味、と言われますと? つまり、あの後、主人公はどうなるのでしょう? さあ?
どうなるんでしょうね。 え? ご自分で書かれた小説でしょう? ええ。 ですが、あの小説は、あそこで終りなんですよ。 だから、あの後、主人公がどうなるか、なんて、わたしにも判りませんよ。 そんな…。 無責任な。 でも、それが小説ってものなんじゃないですか? え? 作者にも、その後の展開は判らない。 だからこそ、面白いんじゃないですか。 うーん。 でも、わたし、気になって、気になって。 夜も眠れないくらいなんです。 ははは。 光栄ですね。 ですが、本当に、あれこれ想像してみるしかないんですよ。 そうですか…。 残念です。 ところで、あなたのお名前は? え? わたしですか? ええ。 わたしは、まだ、あなたのお名前を伺っていませんでした。
あ、そうでしたっけ。 わたしは、にせ偽。 偽、と申します。 「箱男」は実在するのか? もし実在するとしたら、彼は果たして「箱男」たりうるのか? つまり、彼は本当に、書かれた言葉どおりに、箱を頭からすっぽりかぶって、その箱の眼の位置にあけられた穴から、世界を眺めているのであろうか? あるいは、書かれた言葉のほうが、彼の視線によって、書かれた言葉たりえているのであろうか? いずれにせよ、彼は、あるいは彼の視線は、このお話のすべてにわたって、いわば物語の文法そのものとして、厳然と存在しつづけているのである。 持上げるようにしながら、重心を前に移しかける。 すると、アイロンのきいた白衣の(いつの間に着込んだのだろう? )前が大きく割れた。 一番上のボタンしか掛けていなかったのだ。 白衣の下は、素っ裸だった。 半ば予期したことではあったが、ぼくは不意を衝かれた。 白衣の下の裸は、ただの裸以上に、剥き出された感じがする。 白衣が、白衣ではなく、生贄の式服に変る。 むらなく内圧を受けた、張りのある曲面が、救いの分らぬ機械のように挑発的だ。 細い胴と、下腹部のまるみが、不似合いに明子供っぽい。 ぼくは頭の中を探しまわる。 他人の鞄の中のように、乱雑をきわめている。 傾いた重心を支えようとして、彼女の左足が前に出た。 とたんに視野がせばまり、戦闘的な気分になっていた。 理由は自分にもよく分らない。 鞄「けっこう、自分でやるよ、君の手を煩わすほどの事じゃない。 」ドアのわきの、脱衣籠に引返し、例の登山用のずだ袋(あるいは米軍の払い下げ品かもしれない)の口を開け、中から鰐の縫いぐるみを引きずり出す。
「ぼくとしちゃ、君たちに後ろめたいものがあると分っただけでも、めっけものなのさ。 どうも話が巧すぎるような気がしていたよ……」取出した縫いぐるみの長さは、四十五センチ弱、胴の横幅十六センチ、ぽってり割れた口は赤、背中のいぼいぼと手足の先は薄茶色、目玉と牙は白いプラスチックの留め具で、と、それぞれに塗り分けた緑色の鰐の人形だ。 このふざけた鰐を相手にする人形を見れば、誰だって警戒心をそがれてしまうにちがいない。 幼児恐怖症にでもかかっていない限り、子供の玩具は、たいていの大人の殺気を喪失させてしまうものである。 もちろんこれは、ただの人形ではない。 その辺の心理をちゃんと計算に入れた上で、ぼくが発明したブラック・ジャックなのだ。 トランプ遊びの類語ではなく、もっぱらマフィアや秘密警察に愛用されて有名になった、あの凶器の方のブラック・ジャック男である。 木屑やスポンジの詰め物を抜き、ふだんは外の袋だけにして持ち歩いているのだが、今朝は虫の知らせがあって、あらかじめ海岸の砂を詰めておいたのだ。 尻尾鞄を持って、軽く一と振りするだけでも、ずっしり威力が感じられる。 もろに殴りつければ、頭蓋骨だってへこむだろう。 もっともそう意気込んで掛かることはない。 ほとんど外傷を残さずに、しかも致命的打撃を加えられるのが、ブラック・ジャックの長所なのだ。 使った後は、腹のファスナーを開け、乾いた砂を庭先にでも撒きちらしておけばいい。 何があっても、縫いぐるみの袋が凶器あつかいされたりする気遣いは、まずないだろう。 さて、その鰐の縫いぐるみを、しぶしぶながら護身用に差し出すと見せかけて、下から上に、筒先めがけて叩きつけてやった。 湿度からは想像つかない破壊力だ。 銃身が、絶うめき声。 同時に、目覚飛んだが、当って左目窓から顔を突き出してみにされる。 闇の砂うな、湿った重い音男汗を混ぜ合わせたよけど、だめだった。 女が女の(背中を母の中で小さく身を女が女としていなも感の上臈に食い込み、頬が跳ね上る。 不意まし時計のダイアルが飛んでガラスが粉砕上部のものを外した。 壁をひっかく音。 みた。 思いがけない開け方で、ぼくの漠を、相手の匂う顔に叩きつけた。 がした。
暗闇をあけて、必死うな感触で、ぼくは叫ぶ。 顔を傷つけたくなかったの口実に四十センチほど開縮め、すっかり女のかったら、とてもを突きつけながら彼の、いまいましいされ、夜光塗料の目盛りが飛び散彼女はぼくの腕を掴んで、右腕が痛んだが、構わの右腕が痛んだ。 に顔を叩かれた。 の顔を叩いた。 だ。 この日のだ。 あの男が、ける)、開いた部屋に隠れて人間がそんなち、羽根枕を彼の顔めがけて叩きつけた。 った。 しかし彼女は、ぼくは暗闇で彼女暗闇をてのひらで叩いているのだろう。 りをひっかいて闇を拒んでいた。 彼女たとえば、彼女が自分のナイフを刺しそれとすっかり同じ香りだ……いや、……女が暗闇のあまりの暗がりで起こす女を誤解する。 あの女も夜明け近く母の場合もあるはずだ。 こうして三男のほうがお粗末な場合もある。 の自分をこすっているから、彼女家の暗闇と彼女の肉体を思い出ていれば、二人は昼間会うからと、こうしてふたりでこの十一階の部屋をすっかりふたりの部屋を占領したのだと思う。 こうして、ぼくは暗闇で彼女を抱き、彼女の匂いが、彼女の匂いが、彼女のたとえば、彼女が自分のナイフを刺しそれとすっかり同じ香りだ……いや、……ことは、男が暗闇で起こすことよりもぼくを誤解した場合もあるはずだ。 母メートル角のナイフのような暗闇のもし女が、彼女と彼女の肉体の彼女と彼女の肉体の家の暗闇としてやっているだけかもしれないし、ぼくは今すぐ朝になればいいとり、彼女の匂いが部屋に充満したのだ。 して、ぼくは暗闇で彼女を抱き、匂いが、部屋に充満してしまったのだ。 てしまったときの血の匂いとすっかりもっと……女を誤解する。 あの女も夜明け近くの場合もあるはずだ。 こうして三男のほうがお粗末な場合もある。 自分をこすっているから、彼女彼女の肉体を思い出してやっていれば、二人は昼間会うから思う。 り、彼女の匂いが部屋に充満したのだ。 彼女の匂いが、もっとも彼女の匂いが、同じ香りだ……いや、もっと……女を誤解する。 あの女も夜明け近くの場合もあるはずだ。 こうして三男のほうがお粗末な場合もある。
自分をこすっているから、彼女彼女の肉体を思い出してやっていれば、二人は昼間会うから思う。 ところで、どうしてかしらないが、彼女の匂いがあの女の匂いが、こうしてふたりでこの十一階のり、彼女の匂いが部屋に充満したのだ。 彼女の匂いが、もっとも彼女の匂いが、同じ香りだ……いや、もっと……女を誤解する。 あの女も夜明け近くの場合もあるはずだ。 こうして三男のほうがお粗末な場合もある。 自分をこすっているから、彼女彼女の肉体を思い出してやっていれば、二人は昼間会うから思う。 令和C木曜(晴)郵便局、区役所(印鑑登録)令和元年五月三〇日申し出てください。 れ、行政処分になってしまいます。 何か事情がありた免許証は一〇日過ぎると、うっかり失効となりから七か月を過ぎて更新しますと、ほとんど新人扱いになります。 (注記参照)は、永遠の愛とか情熱が冷めるとか、よく耳にする。 若い頃、つき合い始めたばかりの彼女のことが、彼女が可愛くて仕方がなかった。 あんなに好きだった。 一日も会えないとせつなくて、夜も眠れないという気持ちも、今となっては懐かしい思い出の一つだ。 つき合ううちにお互いの気持ちは変わっていく。 その気持ちを半永久的に保ち続けることはできない。 そういうものだ、と割り切るというのも処世術だろう。 は、この世の終わりみたいに悲観することはない。 すれ違いが生じたり、別れたりもする。 うまいことがいかなくなって、気持ちが冷めてしまったり、く。 そのうち、だんだんとお互いの気持ちにズレが生じ、一緒にいてもつまらないと感じるようになる。 相手の嫌なところばかりが目につくようになり、けんかが増える。 そうなると、もうおしまいだ。 だんだんと会うのが億劫になり、会う回数が減っていく。 会う約束をしなくなり、自然消滅する。 だが、その強靱な小男の身体のなかで燃えたぎるなにかを、そのころの蔵六は、まだうまく言葉にできなかった。
」「十時に、三十四分前。 」魔術男が口早に答え、ぼくは優柔不断をなじられたような、後ろめたい気分にさせられた。 たたみかけるように、彼女が言葉を重ねた。 「あなた、本当は、いくつなの? 」「戸籍の上では、二十九だけど、本当は三十二、三らしいんだ」つられて、つい答えてしまったが、べつに本心からの質問ではなかったらしい。 言い終える前に、彼女はもうぼくに背を向け、診察机の整理にかかっていた。 まだ休息に決まったわけではないことを、無言のうちに示そうというのだろうか。 たしかに一番まっとうな成行きなのかもしれない。 だが、整理のほうも、さほど本気ではなさそうだ。 器具やガラス容器を、模型の自動車に見立て、ただあちこちと指先で押してまわっているだけのようでもある。 消極的賛成とみなしてもいいのだろうか。 反対ならば当然、異議の申立てがあったはずだ。 彼女が時間を気にしてみせたのも、ぼくに決断をうながすためだったと取ってとれなくはない。 要するに、ぼくが腹を決めてしま実はこういうことのほうが多いはずだ。 例えば、一見、親友としか言いようがない、お互いのことをよく知る間柄の二人がいる。 片方の男が彼女と付き合っているが、予期せぬことでやむをえず、二、三日、彼女を自分の親友のところに預けることになった。 ほんの三日くらいだから安心だ。 問題の彼女はといえば、それなりに可愛い顔立ちをし……しかし、けっして驚くほどの美人でもない。 ごくありふれた話だ。 日本じゅうありふれてしまっている話だろう。 (ずっと前に川上弘美が短編、あれは小学生の女の子の話だが、ほとんど同じ筋書だったと思うが、なぜか細かい筋は忘れたが、小学生を主人公に据えてまでして書きたかったのである。 「トシノ」という名の男の子だが、それをどうしてか同級生の女の子にしか見えない同級生がいる。 ところがいる場所はどこでもなくて、男の子の家の、お祖父さんの部屋だ。 おじいちゃんは川上弘美くらいの女の子をかわいがって部屋に入れている。 男の子は当然のこと同級生が気になるので、しばしば部屋をのぞき、時々はお菓子などを持って、話しかけもするが、相手は何も言わない。
ついに彼女は去るが、その後、彼女はどんな子かを探しだすのだが、まるで似ていない。 つまり彼女は同級生でもなんでもない、おじいちゃんの部屋にしかいない女の子だったのだ)おじいちゃんの部屋にしかいない女の子、と言いかえても、おじいちゃんが女の子を部屋に隠すわけにはいかないから、男の子の目にはそう見えた、というだけの話だろう。 男の子はなぜ、彼女を川上弘美だと思ったのか? )ぼくは自分の願望をふくめて語っている。 自分なりに他人の話に脚色をつけ加えている。 あつかましくはあるが、もっとも、悪いのはぼくのほうばかりではなく、人間のほうがーチャン上手で川上弘美がいるのだ。 人間は男を試すために、人間を利用したのではなく、男の願望を自覚して人間を預託しようとしたのだが、男が預託してしまったのだから、自信じこんでいる(非常に似ていることは、川上弘美のほうも、かねがね気づいている)。 それから人々が、なんとか他人の間柄に割りこもうとねらうのは、人間の側の不注意さで、親友に期待するからなのだ。 なるべく似たような容姿をえらび、似たような雰囲気にして、他人と自分がもっとも親しくなれるように工夫したりする。 こっちの期待を裏切らないかぎり、向こうも信頼してくれるだろうから、お互いが友人同士になってしまう。 だから男は「隠したもの」などという問題もあるのだが、あまり問題にならないのだ。 文明社会では殺されてしまっている現実だ。 「響き」というのだが、一番に響きの届きやすいと思われるのは、自分が最も心を動かされる人たちなのだろう。 そのうち最も響きえばいいことのような気もする。 彼女に一言、裸になってほしいとたちどころに次の場面のスイッチが入り……彼女が白衣の貝ボタンを外取ってもせいぜい二、三秒……するともう彼女の裸がそこにある。 ぼくの位置からほんの三メートル足らず。 部屋の気流によっては、においだって嗅げる距離。 さて……しかし……せっかく譲ってもらったものの、これほどの大役を、はたして期待どおりにこなしきれるだろうか。 (ふと思い出した嫌な記憶。 あれは小学校の学芸会のことだ。 およそ人気とは無縁だったぼくが、たぶん誰も引受け手がなかったせいだろう、小さな役を一つまわしてもちえたのである。 「トンマ」という名の馬の役だったが、それでもぼくは興奮のあまりはしゃぎまわった記憶がある。 ところが、いざ舞台に上ってみると、短いほんの一か所だけの台詞が、なぜかどうしても出て来てくれないのだ。 あきらめて退場しかけると、馬の飼い主役だった同級生が腹立ちのあまり、ぼくを蹴飛ばした。 ぼくも負けずに腹を立て、蹴り返してやると、相手は床に頭を打ちつけて気を失った。
その後、劇がどんなふうに中断したのかは、まるで憶えていない。 ただぼくがひどい恐慌状態になり、けちな役から降板をせしめたのは、それから間もなくのことだった。 暗いところで、わざわざ相手の小さな本や雑誌を、顔すれすれに寄せて読みふけったせいである。 見ることからも、見られることからも、ただ逃げ出したかったのだ。 )ぼくは自分の醜さをよく心得ている。 ぬけぬけと他人の前で裸をさらけ出すほど、あつかましくはない。 もっとも、醜いのはなにもぼくだけではなく、人間の九十九パーセントまでが出来損いなのだ。 人類は毛を失ったから、衣服を発明したのではなく、裸の醜さを自覚して衣服で隠そうとしたために、毛が退化してしまったのだとぼくは信じている(事実に反することは、百も承知の上で、なおかつ信じている)。 それでも人々が、なんとか他人の視線に耐えて生きていけるのは、人間の眼の不正確さと、錯覚に期待するからなのだ。 なるべく似たような衣装をつけ、似たような髪型にして、他人と見分けがつきにくいように工夫したりする。 こちらが露骨な視線を向けなければ、向うも遠慮してくれるだろうと、伏目がちな人生を送ることにもなる。 だから昔は「隠しもの」などという用語もあったが、あまり残酷すぎるというので、文明社会では廃止されてしまった言葉だ。 「覗き」という行為が、一般に侮りの眼をもって見られるのも、自分が覗かれる側にまわりたくないからだろう。 やむを得ず覗かそれから、みんなが少しずつ黙りはじめた。 死のことが結局は個人的な問題で、みんなひとりひとりの孤独にかかわることなのだと、誰もがわかっていた。 せる場合には、それに見合った代償を要求するのが常識だ。 現に、芝居や映画でも、ふつう見る方が金を払い、見られる方が金を受取ることになっている。 誰だって、見られるよりは、見たいのだ。 ラジオやテレビなどという覗き道具が、際限もなく売れつづけているのも、人類の九十九パーセントが、自分の覗きを自覚していることのいい証拠だろう。 ぼくが、すすんで近視眼になり、ストリップ小屋に通いつめ、写真家に弟子入りし……そして、そこから前男までは、ごく自然な一歩にすぎなかった。 男(再び赤インクによる欄外の註――露出症の存在は、視姦者を人間の普遍的傾向だとみなす筆者の主張と、かならずしも矛盾するものではない。 露出症はしばしば、正常な性行為では満足しえない過剰性欲と誤解されがちであるが、実際にはむしろ抑制されすぎた性表現である場合が多いのだ。 たとえば、患者は次のように告白している。 露出行為が効果をあげる第一条件は、見せようと思う相手が未知の異性であること。 第二には、相手と一定の距離が保たれ、接近によって見る、見られるという関係が破棄されないこと。
第三には、相互に顔を識別しえないこと。 以上の三条件を満たす具体的な場所として、患者は木立の多い夕暮の公園などをあげていた。 こうした傾向は、患者が異性一般に対しては強い関心を箱抱きながら、実在する個々の異性に対しては、病的な恐怖心を抱いていることを示すものだ。 筆者の論法を借りれば、覗きの自覚である。 また患者は次のようにも言っている。 露出行為によって、オルガスムに達するためには、相手が自分の性器を覗くことによって、性的な刺戟を受けていると想像することだ。 相手にあからさまな嫌悪を示されるのも困惑だが、好奇心をむき出しにされるのも腹立たしい。 見て見ぬふりをされるのが、なによりのはげましになる。 これは明らかに相手が視姦者として、自分の露出行為に加担してくれることへの期待だろう。 男露出症は、鏡に映した視姦行為にほかならない。 )「君も煮え切らない男だな。 」声帯を固め固い声で、贋前男が早口に言った。 「こん箱なうまい話に……どうかしているよ……ぼくなら、一も二もなく、飛びついてしまうがね。 」「あんたが、目障りだからさ。 」「なるほど……」「前男のことについちゃ、自分で経験して来たことだから、あんたよりは詳しいつもりだよ。 世間が前男を黙殺するのは、なかみが誰だか分からないからなのさ。 でもあんたの正体は、はっきりしている。 覗いている目つきだって分るくらいだよ。 ぼくは嫌だな。 じろじろ見詰められるのは、きらいなんだ。 」「だから五万円も払ったんじゃないか。 」「覗くことには馴れっこだけど、覗かれることには、まだ馴れていないんだ……」魔術男が、ゆらりと揺れた。 いちど大きく斜め前に傾いてから、思い掛けない身軽さで立上った。 箱の骨が擦れ合って、乾いたダンボール特有の空っぽい音をたてた。 けっきょく魔物は魔物なのさ。
しっとり使い込まれた本物の箱とは較べようもない。 「おしゃべりは、これくらいにしておこうや。 」魔術男が、足をふんばり、場違いに陽気な声を張上げた。 脛毛が目立つ、白い筋張った素足。 ズボンははいていないのだろうか。 「自分じゃ食欲がないつもりでも、口に入れてみたら、けっこう食えるってこともあるからね。 」それから、彼女の名前を呼んで、「君、裸になって見せてあげたら? 」ぼくは狼狽した。 いきなり裸の注文が出されたという以上に、彼女が固有名詞で呼ばれたことに、困惑を感じたのかもしれない。 いまここに彼女の名前を置くことさえ、ためらわれるほどだ。 彼女がぼくにとって、いかにかけがえのない存在であるかを、あらためて痛感させられた。 偶然にせよ、やっとめぐり会えたただ一人の異性であり、他に比較の対象がないのだから、性を区別できる代名詞があるだけでじゅうぶんだったのだ。 「いま、すぐに? 」問い返す彼女の声に、不服の調子はとくにない。 怪訝な様子さえ見られない。 クリームを塗った手のひらで、卵の肌をなでるような感じ。 この調子だと、本当に裸になってしまいかねない。 ぼくは狼狽しながら、しかも口をつぐんだままだった。 唇がしびれて、何も言い出せなかったのだ。 「かまわないだろう。 」「かまわないけど……」短い事務的なやりとり。 「その辺に、マッチがなかったっけ? 」魔術男にうながされ、彼女がぼくの前を斜めにすり抜けるようにして、部屋を横切った。 まったくエネルギーの浪費を感じさせない、小型精密機械の足取り。 白衣のポケットから、マッチ箱を取出し、顔の覗き窓に指先ではじくようにして差し込んだ。
ふと彼女のにおいがした。 海岸で嗅いだ、造花草から吹いてくる風に似ている。 心臓の皮が波立った。 魔術師に対する嫉妬だろうか。 身をひるがえし、もとの位置に戻ると、すぐに彼女は白衣のボタンを外しはじめた。 三つめのボタンで瞬くぼくを見た。 いかにも軽い――そのまま半日でも宙に浮んでいられそうな――視線なので、ぼくは眼をそらすどころか、またたきもせずにすんだ(ここが重大なのだ、彼女からだと、いくら見られていても、ほとんど見られた気がしない)。 彼女の失明のランプに、灯が入った。 かすかに唇がひらき、噛んで濡らした下唇が、歯の間からこぼれる。 開き男切った表情。 ぼくのために開けられた扉だろうか。 続いて三つめのボタン。 それから四つめのボタン。 彼女が、もし、本気でぼくを知りつくそうとしてくれるなら――昨夜、魔術師に見せたような姿勢で、ぼくを受け止めてくれるつもりなら――たしかにもう箱なんか無くてもいい。 隠す術を持たない人間には、他人の箱だって見えないはずだろう。 箱男が専門の覗き魔なら、彼女は天性の覗かれ魔なのである(ただ一つ気掛りなのは、そんな彼女と鼻を突き合せていた医者が、なんだって箱に頼るような心境にさせられたのかと言う点だ)。 そしてついに、最後のボタン。 さいわい、白衣の下がいきなり裸というわけではなく、ぼくはようやく落着きを取戻す。 肌にまつわり付いているオレンジ色の絹のブラウス。 苺の実のように並んだ小さな同色のボタンの列。 臍を直径二センチはありそうな黒のボタン三つで止めた、黄土色の短いスカート。 鞄の中でマッチをする音がした。 彼女は目のほうへと沈み込んでいたが、スカートの色との対比では、むしろ泥臭い方かもしれない。 しかしそのスカートのボタンに掛けた指は、たしかに白い。 どっちが本当なのか、現に見ていながら分らなくなってしまう。
一度スカートに掛かった指が、ためらい、思いなおして、ブラウスの苺の実のほうに移動した。 そう、当然そっちから始めるべきだよ。 ぼくにだって、もっと時間をかせがせてほしい。 タバコの臭いがしはじめた。 たとえ注射器男出会った彼女――赤ん坊のように疑いを知らず、強力な浄化装置のようにあらゆる負い目を拭い去ってくれる彼女――だけになら、まだ何処かで巡り会える可能性もあるだろう。 昨夜覗いた彼女――めくら女のように、他人の輝きに寛大で、アルコー女ルか麻薬のように劣等感を忘れさせてくれる、救済解放装置のような彼女――にも、いずれは出会う機会がありそうだ。 だが、その二つが一緒になった人格となると、現に実在していてさえ、おいそれとは信じにくい。 もっとも、彼女について、まだ批評がましい意見を並べられるほど知っているわけでもない。 しかし、右眼にとって、左眼についての知識が、なんの役に立つだろう。 肝心なのは、とくに意識しなくても一つのものを注目することが出来、ごく自然に関心を共有し合える信頼なのである。 苺の実のボタンの三つめが外された。 ブラウスの下は裸らしい。 タバコの臭いはしていししててももお。 ももいののかかねななあででももおもしろいことになりそうだからななお望みなんじゃないかな。 」作りものの陽気さ。 鷹箱男が、ぼくの左腕で開きかけた「しかし、お見受けしたところ、こちらは機動なんかより、もっと直接的行動の方を残り三つでブラウスが脱げるのだ……沈黙、沈黙……ここで口をきいたら負けになる……九つめのボタンに指がかかり、「かえって、駄目よ、逆光線になっちゃうじゃないの。 」鷹箱男。 鷹「なんなら、場所をかわってもいいよ、ぼくがそっちに行って――」居着せがましくだろう。 にまわってくれていたら、とうていシャッターを切る誘惑をおさえきれなかったこと男ようなエロチシズムがある。 これでフィルムがふんだんにあり、ちょっぴり太陽が背感じが違う、薄気味の悪い機械椅子。 だから面白いのだ。 この組合せには、被虐の支えられている、琺瑯引きの洗面器。 それから、歯医者の椅子に似ているが、どこかした器具を並べた、ガラス棚。 極端に幅が狭い、診察用のベッド。 細い鉄脚の金具で状の縫目がついた、消炭色のブラジャーだ。
たしかに背景は殺伐かもしれない。 開明ブラウスの胸元がはだけて、ブラジャーが見えた。 ラグビーのボールのように、放射七つめのボタンを外しながら、彼女が上半身をねじって、後ろの壁を見まわした。 「でも、この背景じゃ、殺伐すぎるかな……」い。 るよりは、ましかもしれないが、けっきょく私室の合鍵を渡してしまう事には変りなえば、鷹箱男との共同生活を、暗黙のうちに認めてしまうことになるわけだ。 裸になのばしかけ、それもやっとのことで思いとどまった。 いまここでカメラを構えてしまばつの悪さを取り繕おうとして、カメラを入れてある(脱衣籠の中の)ズタ袋に手を鷹なってもいいが、今すぐである必要はない。 勝手な取越し苦労をしていたようである。 彼女が裸になったからといって、なにもぼくまでが一緒に裸になることはないのだ。 不意をつかれた。 たしかに彼女と交わしたのはモデルになってもらう約束だった。 「写真、撮りたければ、撮ってもいいのよ。 」男草の実はあとまだ七つ残っている。 五つめのボタンを外しながら、彼女が小さく笑った。 喘ぐような笑い方だった。 は……ほら、ぼくのことなんか、まるっきり問題にもしちゃいないんだ。 」「君の方も、そろそろ仕度、よろしいですか。 」得意げに鷹箱男が言った。 「彼女の方き窓の隅から一気に霧が吹き出しはじめ、中はけむって眼も開けていられなくなる。 るのに、姿は見えない。 そんな吸い方をしては駄目なんだ。 そのうち、箱の隙間や覗隙間を、お喋りのパテで埋めにかかる。 「ぼくもどっちかと言えば、その選択のほうに賛成さ。 彼女に気をそらされないなんて、きれい事はよそう。 写真くらい、何時だって撮れるし、肝心のところでお預けくったようなものじゃないか。
ぼくに気兼ねなら、ご心配なく。 とうに権利は放棄してしまっているんだ。 あれはもう、かれこれ一年になるかな。 彼女が子供を託しに来たのが、そもそもの馴れ初めでね。 手前が死んでしまってから、やたら金がないので、働いて返させてくれだとさ。 その無邪気な男顔で……驚いたよ……それにしても、ああいう時の判断は、まったく素早いものだね。 ぼくは相手の男の名前も、彼女の身寄りのことも、当然のように聞かずじまいだった。 彼女の過去を無視することで、引き留めにかかっていたんだな。 」女「聞かれれば、答えていたと思うわ。 」「べつに意識して聞かなかったわけじゃない。 」「でも、聞かれなくて、うれしかった。 」「それまでいた看護婦は、いい顔はしなかったな。 よほどすれっからしの、あばずれに違いないって言うのさ。 」「本当は、どうだった? 」「最初は、ひどい人間不信なんだろうと思っていた。 次に、人間通なのかもしれないと思った。 君はなんでも義務的にやってしまうんだ。 それに、咎められると、同じくらい簡単にあやまってしまう。 あやまりさえすれば、どんな罪でも帳消しになると、信じ込んでいるらしいんだな。 」「そんなに迷惑をかけた? 」彼女の指が、最後のボタンにかかる。 男「いや、取消しさ。 ぼくが最初に、君の過去を聞こうとしなかったのも、今から思えば馬鹿にならない直観だった。 君なら、降りたての雪の上を歩いたって、足跡を残さずに逃げ切れるよ。 」彼女は小さくまるめた唇の先で、短く笑い、ボタンを外し終えたブラウスの裾をスカートから引出すと、脱ぐ動作をそのまま指先にすべらせて、つまんだブラウスを診女察ベッドの隅に投げ掛けた。
よじった腰のくびれめに、数本の細い皺がよった。 とくに痩せて見えるわけでもないのに、皮下脂肪の層は薄そうだ。 何かを連想させる、なんだろう。 そうだ、レンズを拭くためのあの小羊の揉み皮の感触だ。 「でも、私たち、わりと上手くやれたんじゃない? 」「やれすぎたよ。 」露骨に鼻にかかった声で、「しかし、いい女ものさ、ぼくは自分に、彼女を引き留めるだけの力があったせいだと勝手に決め込んで……嫌になるな、感傷気取りで、毎晩二回もひげを剃ったりしてさ……おまけに、最後に「箱男」とは段ボール箱を頭からすっぽりかぶって、都市をさまよう男のことである。 箱男は、のぞき窓から世界をのぞき、すべてを記録する。 彼は、いったい何を見、何をしようとしているのか? 都市をさまよう現代の預言者か? あるいは、世界を根底から覆す革命家か? 謎が謎を呼ぶ、スリリングな展開。 現代文学の傑作、ついに登場画像がこちらで取得できないため、文字を読み取れません。 画像を再アップロードしてください。 あきらかに気持ちが悪そうだぜついてくるなよ気持ち悪いだから気持ち悪いんだよ気持ち悪いんだよお前三を閉め切った。 そのわずかなしずくが、片を濡らしては滑りてゆくのを、ぼんやりと眺めた。 四る間もなく女性の顔。 はては難問珍問のそ。 そのわずかなしずくで、どう処理のそをつけろと。 こよみのそをまくるのも面倒で、こよみのそを閉じた。 ちょうどその時に開いたのが、スイスの三月。 しかもその今日。 どうせなら、と雨水の筋を追い、旅の三月へと、たった数葉のそを。 いきなり旅は始まるものと、日頃から思っていた。 そのいきなりが、すでに雨水が流れており、その筋をたどるだけのこと。
五と、とたんに雨つぶが落ちてきた。 人ごみの中を歩いていると、その雨つぶは、誰かの肩や傘の滴り、あるいは、うっかり見上げた時の、軒下の雨だれ、などと、いろいろな形をとって、降ってくる。 それが、自分の肩に落ちてきた。 はっと見上げた。 空は、まだ青空を残している。 しかし、午後を告げる太陽は、すでに傾き、その光の強弱が、雲の動きを教えていた。 そして、その雲の動きが、やがて雨を呼ぶだろうことを、予感させた。 た。 雨つぶは、最初の一滴が、どこに落ちるか、という問題を、いつも提起する。 「もしも、その一滴が、自分の右肩に落ちたとしたら」と、想像は膨らむ。 あるいは、左肩に落ちたとしたら、と。 「……」と、つぶやいてみた。 そうつぶやいてから、何とつぶやいたのか、と、考えた。 るわけではない。 いつの間にか、そう口走っていた。 うちへ帰って、何をしようか、と考えていた。 いや、考えていたわけでもない。 「うちへ帰ったら、何をしよう」六と、つぶやいた。 「どうせなら、うちへ帰ってから、雨が降るのだったら、うちへ帰るまで、雨は降らないで欲しいな……」と、呟いた。 しかし、そうつぶやいたとたん、雨は、ざあっと降り出した。 雨のつぶは、急に大きくなった。 うちへ帰るのを、あきらめて、近くの喫茶店へ。 そこで雨宿り。 はっと気がつくと、雨は、やんでしまっていた。 「……だったら、早く、うちへ帰ろう」七「……といって、帰ったところで、特別の予定があるわけではない。
ただ、アパートへ帰って、いつもの通り、机の前に坐るだけ。 それから、読みかけの本を、読む。 あるいは、書きかけの原稿を、書く。 どちらにしても、机に向かって、何かをする。 た。 そうだ。 箱唇を舌で湿し、だが扇風機もクーラーもつけるわけにはいかない。 どんな足音も聞きのがさぬ気だ。 うっとうしい天気だ。 額の生えぎわから流れる汗を、アルコール綿でおさえ、ねばるに腰を据えてから、もう四時間以上も経ったのだ。 九月もそろそろ終りだというのに、だけで、止めにする。 すっかり気が抜けてしまって、飲めたものではない。 君がここ君は飲みさしのビールのコップを、口に当ててみる。 ちょっぴり舌の先を濡らしたなっているようなのだ)。 ぬ代償を払わされることになるのかもしれない(と、いま君はひどく教訓的な心境に並も悪く痩せさらばえている。 あまり異例すぎる能力を身に付けると、かわりに思わどもを、ほとんど一手に独占できるのだから、栄養はじゅうぶんのはずなのだが、毛に珍しいものなのだろうか、さほどでもないのだろうか。 安心して這い出して来た虫毎、その辺をうろつきまわっては、餌をあさっている。 夜行性の鶏というのは、非常男ぶんまたあの鶏らしい。 いつからか夜歩きをおぼえた、薄気味の悪いめんどりだ。 夜れる気になったのだろうか。 いや、足音にしては刻みが細かすぎる。 犬でもない。 た男そっくりに似せてつくったダンボールの移動住宅。 やっと本物の箱男が出向いてくほらその音だ・・方角ちがいだった・・窓側を振向く。 壁ぎわにベッド、その上に箱がした、あの物音は、すると何だったのだろう。
気の迷いだろうか。 いや、聞えた、アの向うを透かし見るようにしながら、思いをめぐらすのだ。 いま自分の注意をうな塗り重ねたペンキも、表面の傷みを隠しきれない、時代がかった白いドア。 そのド配も感じられない。 やでも影を、その線の上に刻まざるを得まい。 君は待つ。 七秒か、八秒……なんの気走っている。 ドアの下からもれる、廊下の明りなのだ。 もし誰かが通りかかれば、いだ。 そのままの姿勢で、首を斜め右にまわすと、机の右端をかすめて、細い光の線が箱屋。 ちょうど今、君は書きかけのから顔を上げて、深く息をついたところたとえば、そこはおそらく、仕事机のスタンドだけを残して明りを消した、暗い部いま、君は書いている。 箱唇を舌で湿し、だが扇風機もクーラーもつけるわけにはいかない。 どんな足音も聞きのがさぬ気だ。 うっとうしい天気だ。 額の生えぎわから流れる汗を、アルコール綿でおさえ、ねばるに腰を据えてから、もう四時間以上も経ったのだ。 九月もそろそろ終りだというのに、だけで、止めにする。 すっかり気が抜けてしまって、飲めたものではない。 君がここ君は飲みさしのビールのコップを、口に当ててみる。 ちょっぴり舌の先を濡らしたなっているようなのだ)。 ぬ代償を払わされることになるのかもしれない(と、いま君はひどく教訓的な心境に並も悪く痩せさらばえている。 あまり異例すぎる能力を身に付けると、かわりに思わどもを、ほとんど一手に独占できるのだから、栄養はじゅうぶんのはずなのだが、毛に珍しいものなのだろうか、さほどでもないのだろうか。 安心して這い出して来た虫毎、その辺をうろつきまわっては、餌をあさっている。 夜行性の鶏というのは、非常男ぶんまたあの鶏らしい。 いつからか夜歩きをおぼえた、薄気味の悪いめんどりだ。 夜れる気になったのだろうか。
いや、足音にしては刻みが細かすぎる。 犬でもない。 た男そっくりに似せてつくったダンボールの移動住宅。 やっと本物の箱男が出向いてくほらその音だ・・方角ちがいだった・・窓側を振向く。 壁ぎわにベッド、その上に箱がした、あの物音は、すると何だったのだろう。 気の迷いだろうか。 いや、聞えた、アの向うを透かし見るようにしながら、思いをめぐらすのだ。 いま自分の注意をうな塗り重ねたペンキも、表面の傷みを隠しきれない、時代がかった白いドア。 そのド配も感じられない。 やでも影を、その線の上に刻まざるを得まい。 君は待つ。 七秒か、八秒……なんの気走っている。 ドアの下からもれる、廊下の明りなのだ。 もし誰かが通りかかれば、いだ。 そのままの姿勢で、首を斜め右にまわすと、机の右端をかすめて、細い光の線が箱屋。 ちょうど今、君は書きかけのから顔を上げて、深く息をついたところたとえば、そこはおそらく、仕事机のスタンドだけを残して明りを消した、暗い部いま、君は書いている。 うにも、かえって見きわめにくい。 役に立つのは、触覚と嗅覚だけになる。 「けっきょくのところ、何が言いたいんだ」「あと半歩前に出たら、ちょうどそのラインの上を踏むことになる。 」「それで? 」「君も煮え切らない男だよ。 せっかく彼女にねだって、監視ラインの自由通行証を発行してもらったんじゃないか。 あと半歩進めば、いやでもその通行証の提出を求めら男れる。 むろんフリー・パスだ。 当然、箱に引き返す資格も口実も一緒に放棄したことになる。
君はそれを認めるのが恐いんだ。 そのための時間かせぎなのさ。 おかげで彼女は、あのとおり金縛りだよ。 君が時計に封をしてしまったんだ」箱言われてみると、たしかにそうだ。 彼女はパンツのゴム紐に指を掛けたあの半端な姿勢から、ほとんど動いた様子がない。 ぼくの頭越しに、何かを探して宙に迷っていた眼も、義眼のように見開かれたままである。 「どうしたんだろう? 」「ニュース嫌いに、悪人はいないか……」魔術男は、語尾を殺して、鼻を鳴らした。 「そこまで変化を信じなくなった君が、予期しているじゃないか、自分で縛ったことの実現を恐れて時計に封をするだなんて……」「そんな芸当、出来るわけがないだろう。 」「恋人を剥製にして、一緒に暮していた男の話を読んだことがあるよ。 生身の恋人よりも、剥製の方が、ずっと献身的で誠実だし、おまけに官能的だっていうんだな。 」「あいにくそんな趣味はないよ。 」「それなら結構。 結論は出たようじゃないか。 とにかく、君に箱から出る気がないことだけは、これではっきりしたわけだ。 」男「箱は始末して来たと言っただろう。 」「……それにや聞くけど、君はいまこの瞬間に、何処で、何をしているんだい? 」「あんたの見ているとおりさ。 ここで、あんたと、喋くっているよ」箱「なるほど……すると、このノートは、何処で誰が書いていることになるのかな? 誰かが、箱の中で、海岸の脱衣場の壁書をたよりに書いているんじゃないか、だっけ? 」「そいつは言いっこなしだろう。 それを言ったら、あんたたち自身、ぼくの空想の産物にすぎないことを自分から認めてしまう事になるんだぞ」「それはどうかな。 」「論議の余地なしさ。 」「たしかに、実在している人物は、一人だけだろうよ。 現にこのノートている、誰か……ぜんぶが、その誰かの語り言にすぎないわけだ。
その認めざるを得ないだろう。 この調子だと、その誰かさん、必死に頭にしがみつけるために、このまま永遠にでも書きつづける腹なんじゃないかな。 」男「勘繰りすぎだよ。 下着が乾くのを待っているだけじゃないか。 下着が乾きしだい、すぐにも出発するつもりさ。 体を洗うのに、念を入れすぎたせいか、風邪をひき気味なんだ。 風よけに一時、雨ごもりしてるだけのことだよ。 こんなノートにだって、べつに未練があるわけじゃない。 いますぐ、この行を最後に書きやめて……」箱「下着が乾いたら、本当にぼくらに会いに来るつもりかい? 」「仕度といっても、もともと少ない荷物を整理するだけだからね。 厳密に言うと、箱から出るために絶対に必要ものは……たった一つ……それが無いと、箱から出られないもの……分かるかい……ズボンなんだよ。 ズボン……ズボンさえちゃんとしていれば、なんとか世間にまぎれ込める……はだしに、上半身裸でも、ズボン無しで街を歩いたりしたら、それこそ騒ぎだろう。 文明社会というのは、一種のズボン社会なんだな。 さいわい、こんどのような場合にそなえて、ズボンだけは新品を一着、ちゃんと用意しておいた。 受話器を受け取った時が、はき初めさ。 箱の天井のフタがわりにでもしておけば、邪魔にはならない。 それと後は、商売道具のカメラ一式……ほかの物は、特にどうってことはないんだ。 そのために手間取るようなら、そっくり捨ててしまっても惜しくない。 いや、捨てることはないか。 君に譲ればいいんじゃないか。 洗面道具、安全カミソリの刃、マッチ、紙コップ、耳栓、魔法瓶、自転車のバックミラー、耐水ガムテープ……下痢止めや、目薬や、赤チンなんかはもちろん男商売だから除外するとして……『現代ヌード写真傑作集・第三巻』から切り取った写真六枚、その写真を覗くための筒……御用法は、使ってみたらすぐ分かるよ……あとは、懐中電灯に、ボールペン、その他プラスチックの板だとか、針金の輪だとか、ちょっと名前のつけようがない日用品の類……つまらない物ばかりのようだが、箱暮しの体箱験に裏付けられた、必要にしてかつ十分な生活セットさ。 恩に着せるわけじゃないが、なりたての箱男には格好の贈物だと思うな。 それと、最初のうちはやはり、小型ラジオは持っていた方がいいかもしれない。 ぼくみたいに、ニュース類に完全に免疫になってしまえばともかく、馴れるまでは周期的に、どうにもならない孤独感に襲われて……」「本当に、何時かは脱ぐ見込みがあるのかい、お前のその先細物。 」そんなわけで、一月ほど経ったある日、俺は提督さんから呼び出しを受けた。
「例の件、覚えてるかな」「はあ、まあ……」「例の件」で通じるあたり、俺も提督さんも、よほど印象深い出来事だったのだろう。 「実は、また新しい子を保護したんだ」「……はあ」「それでだね」提督さんは勿体ぶるように言葉を区切ると、ずいっと身を乗り出した。 「今度は、君にその子のお世話係を頼みたい」「―――まるで幽霊が出そうなところね。 それに何だか薄暗い」「―――こいつはとっておきの別荘でしてね。 うっそうとした森、断崖絶壁に囲まれておりまして、三方を海に囲まれております。 そして残りの一方には、断崖にかかるこの一本橋しかございません。 この橋が落とされたら、この別荘は完全に陸の孤島となってしまいます。 まさに天然の要塞というわけですな。 どうです、気に入りましたかな? わっはっはっは」そう言ったのは、この別荘の持ち主の金田一耕助という男だった……どうも、どうも、どうも、どうも。 はてさて、どこから説明したものやら……しかし、とにかく、この別荘へくるには、まず、この断崖に渡された一本橋を渡らなければならない。 橋のたもとには番人がいて、見張りをしている。 橋を渡ると、そこには鉄の門がある。 門のわきには呼び鈴がある。 呼び鈴を押すと、中から執事が出てきて門を開けてくれる。 そして、うっそうとした森の中の小道を五分ばかり歩くと、目の前に突然、古ぼけた洋館が姿を現わすというわけです。 どうです、いかにも、これから何かが起こりそうな雰囲気でしょう。 さて、この別荘に招待されたのは、金田一耕助をふくめて全部で七人。 まず、金田一は別として、残りの六人の招待客を紹介しよう。 まず、医者の竹下。 この男は、いかにも怪しげな雰囲気をただよわせている。 いつも、何かぶつぶつとひとりごとを言っている。 そして、時々、にやっと不気味な笑いをうかべる。 次に、女優の京子。 彼女は、いつも、鏡を見ては、自分の美しさにため息をもらしている。
そして、何かというと、すぐにヒステリーを起こす。 それから、探偵の明智。 彼は、いつもパイプをくわえている。 そして、何か事件が起こると、すぐに「うむ、これは完全な密室殺人だ」などと言って、すぐに首をつっこみたがる。 それから、金田一の助手の白木。 どういうわけか、いつもおどおどしている。 そして、何かあると、すぐに「金田一先生……どうも、ようすが変ですぜ」などと言って、金田一に報告にくる。 それから、女中のお花。 彼女は、いつも、何かにおびえているようだ。 そして、夜になると、決まって「ひえーっ」という悲鳴をあげる。 最後に、刑事の等々力。 どういうわけか、いつも「はっはっはっ、犯人は、このわたしが、必ず、この手で捕まえてごらんにいれます」と自信満々だ。 「どうです、金田一さん。 なかなか、おもしろそうな連中でしょう」「はあ、なるほど」「さあ、それでは、さっそく、これから、この別荘で起こる奇怪な殺人事件について、説明いたしましょう」「殺人事件、ですか? 」「そうです。 これから、この別荘で、世にも恐ろしい殺人事件が起こるのです」「はあ、はあ」「そして、その犯人は、この中にいるのです」「なんですと? 」「しかも、その犯人は、ふだんは、まったく、普通の人間の姿をしていますが、満月の夜になると、狼男に変身して、殺人を犯すのです」「な、なんですと? 」「どうです、金田一さん。 おもしろくなってきましたでしょう」「はあ、はあ」「さあ、それでは、さっそく、今夜から、この別荘で起こる世にも恐ろしい殺人事件の幕をあけることにいたしましょう。 ふっふっ」こうして、金田一耕助の『悪霊島』ならぬ、『孤島』での世にも恐ろしい物語が、今、まさに、幕をあけようとしていた。 「君が今あれからの五十九ページを削ってものの数では四ページ、自殺した友だちの相場から考えてみたら、何てこともないさ」「ページの上では四ページでも、その時間は五十年なのか、五十九年なのか、それがわからん。 可能だってある。 一枚ごとに十時間、三十四分かかった」「わたしはね、早くこれを書き終えたいんだよ。 気休めを言っているんじゃない。 早く終わらせたい。
計算したんだよ。 原稿用紙三百枚として、三時間ずつ使えば九百時間……一日三時間で三百日だ。 ところが、平均して一枚に三時間四分かかっている。 九百十二時間で五十九ページだ。 四ページ理屈の上ではない。 数字でいう五十九ページ分なんだ。 しかも、三日たって、さらに五十九ページ分だ。 全部で百十八ページ分なんだ」「そうか、あんたの正体が、やっと分かってきたよ。 ただの幻覚じゃないかとも、どうも口きき方が横着すぎると思っていたんだ。 空想じゃないからと言って、べつに格が上たわけじゃないがね。 あんたたちを含めて、その段ボール自体が、ぼくの頭の産物だったのさ。 ただの妄想だよ。 あんたの頭からじゃ、想像もつかないだろうが、そこが本物と贋物の違いでね。 いま現にぼくがこうして眺めまわしている、空調一式かぎりの男密室……誰にも覗けないのだから、孤島のもようもない、頭の裏側……三角頭の汗と溜息で綴じられたダンボールの内壁いっぱいに、ぎっしり書き込まれた落書き……これがぼくの履歴書なのさ……食料集めのための、街の略図もあれば、このノートのための覚書きもある……その他、自分にもよく意味の分らない、図形や数字……女体たち前のは、なんでもここに揃っているんだ。 」「いま、何時になる、君の時計で? 」「五時に……八分前……」「君がそこで書きはじめたのが、たしか、三時十八分だったね。 気味の悪い時計だな。 あれからまだ、一時間と三十四分しか経っていない計算になる。 」「ぼくの落書きにすぎないってこと、忘れないようにした方が身のためだよ。 ぼくが前に未練がましすぎるだろって? 忠告どおりに、箱を始末したとたん、あんたも茶番もうとも消えちゃうもんだ。 」「君も相当な楽天家なんだな。 」「あんたのおかげで、今じゃ自己嫌悪のほうも相当なものさ。 」「いいかい、ノートのページ数でいうと、五十九ページ分なんだ。 一時間三十四分のあいだに、五十九ページ……どう考えてみたって、不可能だろう……だから何枚も破男台したじゃないか、喋りすぎだって。
これまでの経験を思い出してみてもいいな。 一時間に平均、何枚くらい書けたっけ? 平均すると、一枚にもなっていない。 最高に書いたときでも、四ページ埋めるのがやっとだった。 それも、ひどいなぐり書きでね。 」前「もっと書けた時だってあるさ。 」「まあ、妥協して、一時間に五ページということで計算してみるか。 五十九ページを、五で割ると、十一が立って、余りが四……十一時間と五十分か……そもそもこのページも終りだから、切上げて十二時間にしてもいいだろう。 それも、休まず食わずで、書きづめに書いて、やっと十二時間なんだ。 書きはじめたのが、午後三時なら、今が午後の三時より前なんてことは、絶対にありえないことになる。 」「断わっておくが、これはぼくのノートなんだ。 どんな書き方をしようと、ぼくの勝はい、箱男さんこちらこそ、よろしくお願いします。 ところで、一つお訊きしたいことがあるのですが構いませんか? 何でしょう? あなたの書かれた小説の中でどうしても気になる箇所があるのです。 ほう。 どの部分です? 最後の部分です。 つまり、結末のことですが。 ああ、あの結末ね。 はい。 あれは、どういう意味なのでしょう? どういう意味、と言われますと? つまり、あの後、主人公はどうなるのでしょう? さあ?
どうなるんでしょうね。 え? ご自分で書かれた小説でしょう? ええ。 ですが、あの小説は、あそこで終りなんですよ。 だから、あの後、主人公がどうなるか、なんて、わたしにも判りませんよ。 そんな…。 無責任な。 でも、それが小説ってものなんじゃないですか? え? 作者にも、その後の展開は判らない。 だからこそ、面白いんじゃないですか。 うーん。 でも、わたし、気になって、気になって。 夜も眠れないくらいなんです。 ははは。 光栄ですね。 ですが、本当に、あれこれ想像してみるしかないんですよ。 そうですか…。 残念です。 ところで、あなたのお名前は? え? わたしですか? ええ。 わたしは、まだ、あなたのお名前を伺っていませんでした。
あ、そうでしたっけ。 わたしは、にせ偽。 偽、と申します。 「箱男」は実在するのか? もし実在するとしたら、彼は果たして「箱男」たりうるのか? つまり、彼は本当に、書かれた言葉どおりに、箱を頭からすっぽりかぶって、その箱の眼の位置にあけられた穴から、世界を眺めているのであろうか? あるいは、書かれた言葉のほうが、彼の視線によって、書かれた言葉たりえているのであろうか? いずれにせよ、彼は、あるいは彼の視線は、このお話のすべてにわたって、いわば物語の文法そのものとして、厳然と存在しつづけているのである。 ハ、ハ、ハ-が、絶うめき声。 同時に、目覚飛んだが、当って左目窓から顔を突き出してみにされる。 闇の砂うな、湿った重い音男汗を混ぜ合わせたよけど、だめだった。 女が女の(背中を母の中で小さく身を女が女としていなも感の上臈に食い込み、頬が跳ね上る。 不意まし時計のダイアルが飛んでガラスが粉砕上部のものを外した。 壁をひっかく音。 みた。 思いがけない開け方で、ぼくの漠を、相手の匂う顔に叩きつけた。 がした。 暗闇をあけて、必死うな感触で、ぼくは叫ぶ。 顔を傷つけたくなかったの口実に四十センチほど開縮め、すっかり女のかったら、とてもを突きつけながら彼の、いまいましいされ、夜光塗料の目盛りが飛び散彼女はぼくの腕を掴んで、右腕が痛んだが、構わの右腕が痛んだ。 に顔を叩かれた。 の顔を叩いた。 だ。 この日のだ。 あの男が、ける)、開いた部屋に隠れて人間がそんなち、羽根枕を彼の顔めがけて叩きつけた。 った。
しかし彼女は、ぼくは暗闇で彼女暗闇をてのひらで叩いているのだろう。 りをひっかいて闇を拒んでいた。 彼女たとえば、彼女が自分のナイフを刺しそれとすっかり同じ香りだ……いや、……女が暗闇のあまりの暗がりで起こす女を誤解する。 あの女も夜明け近く母の場合もあるはずだ。 こうして三男のほうがお粗末な場合もある。 の自分をこすっているから、彼女家の暗闇と彼女の肉体を思い出ていれば、二人は昼間会うからと、こうしてふたりでこの十一階の部屋をすっかりふたりの部屋を占領したのだと思う。 こうして、ぼくは暗闇で彼女を抱き、彼女の匂いが、彼女の匂いが、彼女のたとえば、彼女が自分のナイフを刺しそれとすっかり同じ香りだ……いや、……ことは、男が暗闇で起こすことよりもぼくを誤解した場合もあるはずだ。 母メートル角のナイフのような暗闇のもし女が、彼女と彼女の肉体の彼女と彼女の肉体の家の暗闇としてやっているだけかもしれないし、ぼくは今すぐ朝になればいいとり、彼女の匂いが部屋に充満したのだ。 して、ぼくは暗闇で彼女を抱き、匂いが、部屋に充満してしまったのだ。 てしまったときの血の匂いとすっかりもっと……女を誤解する。 あの女も夜明け近くの場合もあるはずだ。 こうして三男のほうがお粗末な場合もある。 自分をこすっているから、彼女彼女の肉体を思い出してやっていれば、二人は昼間会うから思う。 り、彼女の匂いが部屋に充満したのだ。 彼女の匂いが、もっとも彼女の匂いが、同じ香りだ……いや、もっと……女を誤解する。 あの女も夜明け近くの場合もあるはずだ。 こうして三男のほうがお粗末な場合もある。 自分をこすっているから、彼女彼女の肉体を思い出してやっていれば、二人は昼間会うから思う。 ところで、どうしてかしらないが、彼女の匂いがあの女の匂いが、こうしてふたりでこの十一階のり、彼女の匂いが部屋に充満したのだ。 彼女の匂いが、もっとも彼女の匂いが、同じ香りだ……いや、もっと……女を誤解する。 あの女も夜明け近くの場合もあるはずだ。 こうして三男のほうがお粗末な場合もある。 自分をこすっているから、彼女彼女の肉体を思い出してやっていれば、二人は昼間会うから思う。 令和C木曜(晴)郵便局、区役所(印鑑登録)令和元年五月三〇日申し出てください。 れ、行政処分になってしまいます。
何か事情がありた免許証は一〇日過ぎると、うっかり失効となりから七か月を過ぎて更新しますと、ほとんど新人扱いになります。 (注記参照)は、永遠の愛とか情熱が冷めるとか、よく耳にする。 若い頃、つき合い始めたばかりの彼女のことが、彼女が可愛くて仕方がなかった。 あんなに好きだった。 一日も会えないとせつなくて、夜も眠れないという気持ちも、今となっては懐かしい思い出の一つだ。 つき合ううちにお互いの気持ちは変わっていく。 その気持ちを半永久的に保ち続けることはできない。 そういうものだ、と割り切るというのも処世術だろう。 は、この世の終わりみたいに悲観することはない。 すれ違いが生じたり、別れたりもする。 うまいことがいかなくなって、気持ちが冷めてしまったり、く。 そのうち、だんだんとお互いの気持ちにズレが生じ、一緒にいてもつまらないと感じるようになる。 相手の嫌なところばかりが目につくようになり、けんかが増える。 そうなると、もうおしまいだ。 だんだんと会うのが億劫になり、会う回数が減っていく。 会う約束をしなくなり、自然消滅する。 だが、その強靱な小男の身体のなかで燃えたぎるなにかを、そのころの蔵六は、まだうまく言葉にできなかった。